人生悲喜こもごも

演劇、哲学、うつ、人間関係など、日々感じたり考えたことを書きます。

セリフがうまい役者とは

演技のお話です。

 

セリフがうまい役者とは、文脈にあったニュアンスをセリフにのせて伝えることができる役者のことです。

 

同じセリフでも、文脈によって、ニュアンスは千変万化します。

 

ニュアンスの中には、意味、役のキャラクター、などが考慮されます。

 

台本に「バカ!」

と書かれているとしても、このひとつのセリフには、様々な意味があるのです。「バカ」というとふつう相手を侮辱することと考えられますが、侮辱ではなく、叱るという意味でのバカもあれば、単に怒りの表現としてのバカもあります。あるいは、恋人に対して、好きな思いを「バカ」に込めることもあります。

これらの意味を文脈の中できちっととらえることで、セリフとして発せられたニュアンスは当然変わってきます。

 

もうひとつは役のキャラクターです。演じる役がどんな人物なのかによっても、セリフのニュアンスは違ってきます。相手を侮辱する「バカ」でも、高圧的なタイプ、腰の低いタイプ、やさしいタイプの人がいうのでは当然ニュアンスは違ってきます。

 

これらの意味やキャラクターを踏まえてひとつひとつのセリフのニュアンスは決定されていくのですが、それらは勝手に役者が決めることではなく、あくまでも台本を根拠にして、台本からそのニュアンスをくみ取らなければなりません。

 

その意味でセリフのうまい役者とは台本が読める役者なのではないかとおもいます。

 

社会人演劇の最大のメリット

社会人演劇もしくはアマチュア演劇のメリットについてはいろいろあるかとおもいますが、最大のメリットは、アマチュアだからこそ、「純粋」に芝居や芸術を、自己自身を追究できるところではないかとおもいます。

 

芝居をやる動機は、人それぞれだとおもいますが、ひとつは演劇という仕方で「自己表現」を追求することです。これは劇作家なら台本、演出家なら解釈とプラン、役者なら演技、ということになるでしょう。

 

これらは演劇を構成する主要素ですが、それらの能力や技術を発揮したり高めたりすることそのものが楽しい、というのが動機でしょう。

 

もうひとつ隠された動機があるとぼくはおもっています。

それは演劇活動という集団創作の場に身をおくことで、自分自身の成長や再発見をしていきたいというものです。

演劇をやる人は気づいているかなしかに関わらず、どこかで自分探しをしているようなところがあり、またそれを通して新しい視野を見つけようとしているようにもおもいます。

それは集団の創作活動だからこそできる大きなメリットだとおもいます。そういう教育的な機能を演劇というものが持っているのだとおもうのです。なぜなら演劇活動は、人間関係を媒介として人間関係を表現しようとする創作活動だからです。

 

ぼくは、アマチュアの社会人演劇活動をやっていく中で、そのような光景を、他の仲間たちの中にも見ているし、なによりも自分自身にとってそのような意義があることを実感しています。

 

社会人演劇の最大のメリットは、そのような動機に根差した活動を、「純粋」に追求できるところにあるとぼくは考えます。

 

純粋さというのがとても大事で、アマチュアであるゆえに経済的な利害が絡まないことで、自分の発揮したい高めたい能力や技術を、ただそれだけのために求めることができるのです。

 

例えば職業俳優だとそういうわけには必ずしもいきません。自分の演技の能力を高めることより、収入を得たいというおもいから自分の広告・営業活動に心が奪われてしまったり、生活費をかせぐことを口実に、かえって日々の稽古をさぼってしまったり、あるいは、うぬぼれや嫉妬心で演技がかえって雑になったり質をおとしてしまう等、その俳優の純粋な演技力追求を邪魔するさまざまなわなが職業演劇の中にはあるのではないかとおもいます。

 

職業俳優になろうとする人たちには、さまざまな思惑や野心があり、必ずしも、演技が好きということだけでやっている人たちだけではないですし、たとえ好きであっても自分の追求したいことをやらせてもらったり、自分が伸びるようなことにチャレンジする場を与えてもらえたりするのはよほど恵まれている人でない限りまれです。

 

その点で、社会人演劇、アマチュア演劇は、純粋に演劇が好きだからやるのであり、演技が好きだからやるのですし、またアマチュアの創作の場も、職業としての思惑や野心に惑わされずに、純粋に自分の好きなことを追求できるのです。

 

自分を知るという意味での自己探求においても同じことが言えます。

利害関係やかけひきなしに演劇の仲間と交わりをもつことができます。それは経済生活中心のいまの日本の中にあって、とても貴重であるし、利害が絡まないからこそ、純粋に仲間のことをおもいやれるし、仲間からも率直なフィードバッグがかえってくるのです。また立場や経済状況からの制約も受けないので、そこでの人間関係は、なんのしがらみもなく、それぞれが一人の人として、つき合うことができるのです。個人的には様々な問題を抱えているかもしれませんが、少なくても、上に述べたようなしがらみからは解放されたところにある場なのです。そこで人は改めて本来の自分を見出し、取り戻せるのかもしれません。

 

こうした、演劇活動そのものにおける活動の純粋さ、および、その場での人間関係そのものの純粋さ、このふたつの意味での「純粋さ」こそ、社会人演劇もしくはアマチュア演劇が持ち合わせている最大のメリットなのではないかとぼくはおもっています。

 

 

はじめての演劇体験 小学校6年生、台本・演出・出演

ぼくのはじめての演劇体験のお話です。かなり昔の話です。30年くらい前の話です。

 

ぼくはその時、小学校6年生で、修学旅行を控えてました。その修学旅行のリクリエーションで、仲良し3人組で、寸劇をやることになっていたのです。

 

ところが、修学旅行当日は、たしかぼくの具合が悪くて、リクリエーションに参加できなかったのですね。

 

そしたら、担任の先生が、それじゃあ、今度の全校集会の時に、時間とるからやっていいよと言われたのです。修学旅行だと観客は同学年だけだし、ステージもあってないようなものだったのですが、全校集会なので、体育館でやるわけで、ステージもあるし、全学年が見ている前でやる機会を与えられたのですね。

 

そんなこといままでやったことなかったけど、ひょうきんもののこんびだったので、なんか面白いことやろうということで、普段の授業中の授業妨害的なおふざけを、まあ体育館のステージの上でやろうということになったのです。

 

なんかね、ぼくはハッスルしちゃって、台本書いちゃったのね。そしたら、他の2人もそれでやろうということにすぐ同意してくれたのです。

 

芝居(寸劇)のタイトルは、「正義は勝つ!」。あらすじは、主人公(正義の味方)のぼくが、道を歩いていると、ちんぴらっぽいのが歩いてきて、肩がぶつかるんですね(わざとです)。そしたら、そのちんぴらが、「どこ見て歩いてんだ、このヤロー!」ときれて、ポケットに潜ませていたナイフを持ち出してぼくになぐりかかってくるのです。正義の味方のぼくは、そいつの腕を片手でかっこよくつかんでねじ上げて、一言「やめといたほうが、いいぜ」といって、そいつの腕ごと突き飛ばすのです。それで恐れをなしたちんぴらは、「ちくショー、覚えてやがれ!」と言って逃げていくわけです。

 

場所は、変わって、今度は、そのちんぴらが自分の親分に復讐のお願いをするわけですね。当時、小松政夫の「小松の親分さん」というのネタが流行っていて、親分役が小松くんと言ったので、それとかけて、「小松の親分さん、かたきを討ってください」とちんぴらがいうと、親分が「なにー、そいつはゆるせねえ、野郎ども、いくぞー!」というのです。出演者は3人しかいなのですがね。

 

それで再び、同じ道で、ぼくが歩いていると、小松の親分とちんぴらの二人が登場して、ぼくを取り囲んで、「覚悟しろー」とかいうので、最後に、正義の味方の必殺技がさく裂するのです。ぼくが「スーパー、ハリケーン!!!!」といって、派手にくるっと回ると、囲んでいた二人が、吹っ飛ぶというわけ。

 

飛び散っていった二人をみて、最後の決めぜりふが、

「正義は勝つ!」

 

END

 

 

という芝居です。10分弱の寸劇だったといおもいます。

 

結構、受けましてね、ぼくの「やめといたほうがいいぜ」と

ちんぴらが「小松の親分さん」のに泣きつく下り、

そして、さいごの「スーパーハリケーン!」のところで笑いがどっと起きました。

 

いやー、くだらないですが、あのときは、なんにも考えていなかったけど、

うけたし、それがうれしかったし楽しかった。

 

これがぼくの演劇初体験、しかも、作演出主演(最初でいまのところ最後(;´・ω・))の思い出です。

 

これがきっかけとなって、このあと、中学に一緒に上がった仲良し3人は、演劇部に入ることになるのです。

 

きょうは、ぼくの演劇初体験のお話でした。

 

嫁が帰ってくる前夜

嫁が12日間のニュージーランド旅行を終えて、明日の夜帰ってきます。

 

長いようであっという間の12日間でした。結婚してから5年半経ちましたが、こんなにも長い間、離れていたのははじめてだったので、お互いどうなるかなあとおもっていました。しかし嫁もホームシックにならず、ぼくはぼくでそんなに生活が乱れることもなく、さびしさもあったけど、ぼちぼちやれてたようにおもいます。

 

実際には、いまはラインがあるので、嫁とは、ほぼ毎日話してました。ほんと便利ですよねえ、ライン。電話料金もかからないし、カメラもついているから顔もみれるし。

 

ただ嫁がいない間にいろいろやろうとおもっていたことがあったんですが、意外と日々の雑務に追われて、あんまり何かをまとめてやれたということはなかったです。残念。

 

嫁とはさっきもラインで話しましたが、楽しい珍しい経験ができたのでよかったとのことです。ただ、景色を観に行ったというのが主で、おいしい食事とかはむずかしかったようです。むこうはパン食が主だったので、日本に帰ったらごはんと納豆が食べたいと言っていました。外食はすごく高くて、牛丼が2000円位するそうです。またお風呂の設備が整っていないとのことで、シャワーしかなく、湯船につかれないとこぼしていました。

 

ごはんと納豆と味噌汁、それと湯船を沸かして、あした嫁を迎えようとおもいます。

 

あとは飛行機が落ちないで無事に帰ってきてくれるのを祈るばかりです。

おおげさなのかもしれないけど、ぼく自身日本を出たことない男ですし、飛行機に乗った経験も少ないので、なんとなく飛行機は心配なんですよね。

 

きょうは、嫁が帰って来た時に備えて、家の掃除や洗濯をやっておきました。わたしがいないとこんなに家を汚してとか言われたくないので。出迎える準備は万端です。

 

よし、お風呂入ってこよっと。

 

20年来の慢性うつ病者の悲願

おそらく慢性の精神疾患者の悲願は、自分の体験と苦労をなんらかの形で社会の役に立てたいということではないでしょうか。

 

ぼくは、中学のときの10か月間のいじめが原因で、抑うつ状態になり、大学まではなんとか入学したものの、2年生になるころには精神的に破たんしてしまいました。

そこではじめて精神科とつながり、うつ状態だと診断されて、以来20年以上にわたりうつを抱えて生きてきました。

 

40代も半ばに差し掛かろうとしていますが、仕事についたり、休んだりの繰り返しで、そのつど一生懸命生きてきたのですが、やってきたことはどれもはんぱで、なにひとつプロフェッショナルというものを築けていないのです。

 

そんなぼくがいままで生きてこれたのは、とてもラッキーだったのだとおもいます。

 

でもやはりひとに誇れるものがないというのは、とても悔しく残念です。

 

ぼくのいじめ体験とうつ病は、運命だったのだとおもっています。そしてこのいじめうつの後遺症はこれからも続いていくのだとおもいます。

 

運命は甘んじて受け入れるしかないけれど、でもぼくはその運命を生かしたいとおもうのです。

 

こんなぼくだからこそできることがあるのではないか、社会に役立てることがあるのではないか、ぼくは社会の役に立ちたいし、自分の運命をいかして役に立ちたいとおもうのです。

 

ぽんこつなぼくで、どうやったらそれができるのか、日々苦闘悶々としていますが、でもやっぱりぼくはそれを欲せずには、願わずにはいられないのです。

 

過去のことはすっぱり忘れて、新しく生まれ変わるのではなく、過去と現在の生きづらさにからめとられながらも、その中で自分を生かしていく道を模索しています。

 

それがぼくの悲願なのです。

 

嫁を大切にしなければならない理由

ぼくは39歳で結婚したんですが、実は籍をいれたときは無職だったのです。

 

しかもうつ持ちの男です。

 

彼女から結婚したいと言われたときは、これは大変なことだとおもいました。

 

そこで、とうの昔にぼくの結婚はあきらめていたおふくろに聞いたんですよね、半分ジョークで。

 

「彼女は、こんなぼくと結婚したいというけど、彼女は、バカなのかなあ?それとも、ぼくに魅力があるのかなあ?」

 

おふくろ曰く、

「わたしの知ったことかー!」と。

 

でもその後で。

「お前を引き取ってくれるのなら、のし付けてくれてやらあ」

 

それでほんとにのしつけて、もらわれていったのです。

 

結婚して6年目ですが、彼女は、いまだに、

「あなたはいいひとだ」といってくれます。

 

そんなこと言ってくれる嫁ってめずらしいんじゃないかとおもうのだけど。

 

これはのろけなのだろうか?

 

ひょっとしたらぼくは本当にいい人なんじゃないかしら。

 

ということで、引き続き、

 

嫁のことは、大切にするしかない、ですね。

 

 

人の個性が本来意味することとは?

人の個性は、その人の人間関係にあらわれるんじゃないかとおもっています。

 

個性と言っても、人間は「モノ」じゃないから、PCでいえば、CPUがいくつとか、メモリやハードディスクの容量とか画面の大きさとかそういった「属性(能力や特徴)」が個性をあらわすとはおもえません。人間で言えば、身長、体重、容姿、学歴、職業といったものは全部その人の属性だとはいえますが、それとその人の個性とは本来違うのではないかとおもうのです。

 

ぼくは人間とは「人間関係」のことではないかとおもいます。

卑近な例では、大昔のドラマ、武田鉄矢金八先生の言葉、「「人」という字は、人と人とが支えあって、「人」になっている」、が思い出されます。人と人とが支えあっているかどうかは疑問におもうところもありますが、少なくとも、人と人とが関わりあうところ(人間関係)に、人間があるということは言えるようにおもうのです。

 

だとすれば人の個性というものも、その人の属性にではなく、その人の他者とのかかわり方・つきあい方にあらわれるのではないかとおもうのです。

 

人間関係のあり方は、2つにわかれるとおもいます。

①相手を受けいれる人間関係

②相手を無視する人間関係

 

①は、相手を尊重し、親切で、やさしい、関わり方です。人と関わりを持つとは本来このことを言うのではないでしょうか。

②は、相手の気持ちや意見、状況・立場をないがしろにすることです。相手の存在を無視するとは、人間関係のあり方というより人間関係の破たんを意味するのはないかとおもいます。

 

現実の人間関係は、相手を受け入れる一方で、受け入れられない部分、つまり無視したい部分もあるといった、受容と無視の綱引きの中にあるようにおもいます。

 

例えば、友人の努力家なところは、すごい認めるし、尊敬するけど、自慢家のところは、うざいとか。彼女の料理が上手なのはすごいいいのだけど、いちいち干渉することろがいや、みたいな。

 

人間とは、人間関係のことであり、人間関係とはいま目の前の他者を受け入れることにあるのだとすれば、人の個性とは、他者をどれだけ尊重し、受け入れることができるのかにかかっているのではないかとおもいます。

 

したがって、個性をあらわす表現は、人間関係にかかわる言葉、やさしい、親切、謙虚、冷たい、意地悪、傲慢等、といったことばであらわされるのが適当ではないかとおもいます。

 

二枚目だとか、才能があるとかはやはりあくまで属性なのであって、その人の特徴ではあっても、個性をあらわすことばにはならないようにおもいます。

 

人との関わり方、人をいかに受け入れるかに、その人の個性があらわれるというのが今回の記事の結論となります。