質素に行こうとおもうのですが、気が抜けて…
きょうは、仕事の予約が入っていたのですが、直前になってキャンセルの電話がかかってきてしまい、残念でした。
ほかにも勉強会とかあって、それらを消化した後の、一日の総仕上げにお仕事があるという予定で、一日のリズムを作っていたので、なんか、キャンセルときいて、気が抜けてしまいました。
勉強会の最中に電話がかかってきたのですが、終わった後、放浪してしまいました。放浪はいいのだけど、家で飯作る気力もなく、夕食も早くに外食してしまい、きょうは、三食外食でした(-_-;)
質素に暮らそうとおもっているのですが、お金ちょっと使っちゃいました。三食外食だと、3000円位一日で使っちゃうのですね。
あしたからまた、質素にいきます。
仕事の予約は、キャンセルが多くて、段々、キャンセル電話がかかってくるのが怖くなってきました。今度は、土曜日に、予約が入っているのだけど、ちゃんと来てくれるだろうか、心配です。
きょうは暖かくなると朝のニュースで言っていてそうだったようにもおもうだけど、夕方からなんかぼくは寒くなってきて、18時すぎに家に帰ってきて、こたつに入って横になっていました。
きょうはなんかしんどいので、なるべく早く寝ようとおもいます(いつも早いけど)
読んでくれてありがとうございました。
愛猫ラブそう、闘病生活の始まりと愛の生活
それは、そうすけ(愛猫、以下そうちゃん)が家に来て、2年位経った頃だったでしょうか。そうちゃんは2歳のころだったとおもいます。
朝方、5時位に、そうちゃんが激しくおう吐をし始めました。もともとたまにおう吐はあるのですが、激しかったので、そうすけ命の嫁は飛び起きて、彼に寄り添って様子をうかがっていました。ぼくは半分寝ていてうとうとしていましたが、そうちゃんが激しくげーげーやっている声は、ずっと聞こえていました。
7時ごろ、改めて目が覚めると、そうちゃんは、いつものように元気そうでしたが、嫁はそうちゃんにずっとついてたようでした。
嫁は、
「吐き方が、尋常じゃないし、液体みたいなものしか吐かないの」
今までも、たまに吐く子だったのですが、いつもは、大体、食事が出た時に勢いよく食べすぎて、食べた物ごと吐く感じだったのです。
それが今回は、何も食べてないのに吐く、吐くけど液体しか出ないのです。
嫁は、すごく心配そうで、
「そうちゃん、心配だから、Kさん、お医者さん連れてってくれる?」
嫁は、すぐに出勤で、ぼくは、仕事ではなかったので、ぼくが連れていくことになりました。
ペットクリニックに朝一番に行って、見てもらいました。
血液検査ですね。それからエコーも取りました。
で、結果は、
「肝臓の値が高いですね、おそらく、肝臓か胆のうの病気かと思われます。
詳しいことは、このクリニックだけでは限界があるので、大学病院の動物医療センターを紹介します。そこで、ちゃんとした診断が下るとおもいます」
肝臓の中にある胆のうがやられているようで、あるいはすい炎、またはがんの可能性もあるとも言っていました。
そうちゃんは、前のように元気になるのですか?ときくと、もっと検査してみないとわからないとのことでした。
わかったことは、そうちゃんが、内臓の病気にかかったようだということです。
そうちゃんはその後、水分と栄養分と吐き気止めの入った点滴を打ってもらいました。
ぼくは、そのクリニックでそのまま大学病院の予約を入れてもらって、肝臓の値を下げるステロイドと吐き気止めの薬をもらって、帰ってきました。
帰ってきたそうちゃんは、割と元気そうでしたので、ぼくはホッとして、その日は自宅での仕事をしていました。
その日の21時すぎに、嫁が帰ってきました。そこでそうちゃんの容態を伝えたのですが、嫁の驚くべき反応が返ってきました。
ぼくは、
「ああ、そうちゃんだけどね、肝臓の値がすごい高いんだって、肝臓の病気みたいだよ」
嫁は、それを聞いたとたん、あっという間に目に涙を浮かべて、泣き崩れました。そのままそうちゃんを抱きしめて、そのあと2時間泣き続けたのです。
まさか2時間も泣き続けるとはおもいもしなかったので、こっちは驚きました。
嫁は、知っていたのです、猫が一度内臓の病気にかかると、治らずに一生病気を抱えて生きていかなければならないということを。
それにしても、2時間も泣き続けたのには本当におどろきました。
最後には、嫁の実家のお母さんにまで、電話をかけ始めました、ぼくはそれを横で聞いていたんですが、
嫁、「もしもし、お母さん、そうちゃんがね!」と泣きながら電話でいいます。
お母さんも、異常事態に驚いようで、
「え、なに!Kちゃんがどうしたの?!」お母さんは、そうちゃんとぼく(Kちゃん)をきき間違えたようでした。ぼくの身に何かあったとおもったのでしょうか。
嫁、
「違う!Kちゃんじゃなくて、そうちゃん!」
お母さん
「え、そうちゃん?ああ、猫ね。あなた、猫よりKちゃんのほうが大事じゃないの!」
嫁は、そういわれて泣きながら笑っていましたが、そのあと、そうちゃんが内臓の病気にかかったことを伝えました。お母さんも、あきれていたようですが、その後、嫁を慰めていました。
そして、2時間が経過して、やっと泣き止んで、ぼくのところに来て、
「猫はね、内臓の病気にかかるともう治らないのよ」
と教えてくれました。
そこでぼくはやっと嫁の嘆き悲しみが納得いったわけでした。
そうちゃんは、その後、大学病院でみてもらい、がんでもすい炎でもなく、おそらく胆管炎だろうとということに落ち着きました。
ぼくは、その診断をきいてすぐに、
「先生、そうちゃんは、前のように元気に過ごすことができないのですかね?」
とききました。
大学病院の医師は、
「それは、だいじょうぶです。とりあえずステロイドと抗生物質を飲み続けることで、以前のように元気でいられるはずですよ」
それをきいて、ホッとしました。そして更に、
「そうちゃんは、どれくらい生きられるのでしょうか?」とききました。
医師、
「そうですね、平均寿命位は生きられますよ」
ぼく、「平均寿命って何歳くらいなんですか」
医師「大体10歳位です」
帰ってから、余命のことも嫁に伝えると、
「Kさん、ありがとう。わたしじゃとても怖くてそんなこときけなかったとおもう」
こうしてそうちゃんとぼくら夫婦の新たな生活がスタートしました。
そうちゃんには毎日ステロイドと抗生物質のを錠剤を朝と夜に口から飲ませています。
既に3年が経過しています。
この生活は、そうちゃんが天に昇るまで続くことでしょう。
いま、そうちゃんは、5歳です。容態は落ち着いていて、うちの中を元気に走り回っています。
その間にぼくもそうちゃんが大好きになってしまいました。
大好きなそうちゃんと大切な嫁との3人での暮らしを、これからも一日一日大切にして生きたいとおもいます。
最後まで読んでくれてありがとうございました。
子猫のそうすけとの愛の生活のはじまり
家には、猫が一匹います。
嫁さんが、大の猫好きで、結婚して引っ越したらすぐに、猫をもらってきました。
猫の里親制度というのがあって、そこからひきとってきたのです。
家に来た頃は、まだ6か月でした。
名前は、想輔(そうすけ)、といいます。
嫁が付けたのですが、はじめは、え!という感じがしたんだけど、すぐにその名前になれて、いまではすごいいい名前だとおもっています。
そうすけ ⇒ ラブリーそうすけ ⇒ ラブそう ⇒ ラブ
以上のような変遷を経て、いまでは、ラブちゃんと呼ばれています。
そうすけの「そ」の字もない状態です。
家にきた当日は、土曜日で、嫁が連れて帰ってくることになっていました。わたしは、そのころは、また違うお仕事をしていて、その日は出勤で、夜帰ってきました。きっと、猫好きな嫁は、彼とでれでれでくっついているのだろうなとおもったのです。
帰ってみると、嫁は、一人で本を読んでいました。猫の姿はどこにもいません。
「あれ?猫ちゃんどうしたの?」ときくと、
「テレビの裏で隠れている」とかえってきました。
そうなのです、猫とはいえ、はじめてのお家で、はじめての人とそんなに仲良くなれるわけないのです。むしろ、はじめての環境が恐くて、それで、テレビの後ろに隠れて出てこないというわけでした。
上から、テレビの裏を見てみると、小さくちぢこまっている子猫が見えました。
「ああ、そうなんだね。どれくらいで慣れるの?」ときくと、
「2週間位だって」とかえってきました。
更に「夜泣きがしばらく続くみたいよ」と。
さて、夜になって、夜泣きがはじまりました。確かにニャーニャーないています。
さびしいし、怖いんだろうね、とか話しながら、ぼくたちはねました。
しかし夜泣きは思いのほか、長くは続きませんでした。おそらく3日間位ですんだかとおもいます。
夜泣きは済みましたが、それでもテレビの裏に隠れるのは変わらずで、それで2週間が経ちました。
その間に、ゲージを買ったら、テレビの裏から出てきて、ゲージの中には入るようになりました。
それでついにちょうど2週間目の夜だったかとおもいます。
ゲージを横に嫁と二人でこたつに入っていたのですが、そうすけ君がニャーニャーこっちに向かって鳴いてきたので、嫁に、
ちょっと抱っこしてみたらとすすめてみました。いままでなら、近づこうとすると、すぐに逃げてしまっていたのです。だから抱っことかしようとしないで遠くから見てました。
でもそろそろ2週間たつからとおもって、嫁に勧めると、嫁は、意を決して、そうすけに手を差し伸べました。そうしたら、そうすけは逃げもせず、はじめて、嫁の胸元で抱きしめられたのです。
そして、次には、その嫁の中で、ぐるぐる、言い始めたのです!
「Kさん、ぐるぐる言っているよ」と嫁、
「わあ!本当だ、すごい!」とぼく。
ついに嫁とそうすけ君は、相思相愛の中になったのでした。
なかなか感動的なシーンでした。
嫁もすごく幸せそうでした。
ぼくもはじめてそうちゃんが打ち解けた姿をみて、嫁と愛し合っているのをみて、
感動しました。
それから、ぼくたち夫婦とそうちゃんの愛の生活が始まったのです。
ぼくのブログ記事の書き方
ぼくはブログを書きながら考えて書いているのですね。
(とキーボード打ちながら書くこと考えています)
なにか、これというのがあって、それをテーマにして書くというんじゃないんですね。
本当は、きょうはこれを書こうときちんとテーマを決めて、書くのがいいんだとおもうのだけど、書きだしながら、だんだん書きたいことが浮かんでくる感じなのです。
そんな書き方じゃ、読んで楽しいものや役に立つことを書くのは難しいとおもうのだけど、毎日続けて書くには、このほうが書きやすいので、このスタイルで書いています。
それで、文章書き終わった後、タイトルつけています。
こんな感じで書いているから、ぐだぐだな記事になっているのかもしれません。
話変わって、
きょうは、家にずっといて、内勤というか、自宅でいろいろ作業をしようとおもったのだけど、寝落ちしてしまいました。
ひとつ読みかけの本を読み終えたという以外には、なにもやれたことがなく、なんとも残念です。
やっぱ一日家の中にいて、しかもこたつに入っていると、必然的に寝落ちの方向にいってしまいます。
あしたは、もっと時間を大事に使いたいです。
記事ももっとがんばります。
あっぱれ、わが嫁。嫁にさとされる。
きょうは嫁も休みだったので、二人で過ごしました。
カフェで、読書してから、外のベンチで少し話しました。
バイト探しという久しぶりに、外部に触れる活動をして感じたこと話したのです。
「ぼくはね、わかい大学生たちとかと一緒に交じって、仕事するのが恥ずかしいのだよね。」
「いい年して、それなりのポジションにもついてないで、大学生たちに交じって仕事するのが恥のような気がして気が引けるんだ」
と伝えました。
ぼくは、経済的な余裕がないのに、この期に及んで、仕事に消極的なことを考えている自分は、情けないのじゃないかしら、もっとがむしゃらになってやっていかなきゃならないのじゃないかしら、とおもっていたのです。そしてそんな自分はやっぱりだらしないのじゃないのかとおもって、それを恥ずかしいとおもっていたのです。
そしてそれを嫁に言ったら嫁にもまたさげすまれるのじゃないかという不安があったのです。ぼく自身がぼくのことをどこかでさげすんでいるのかもしれません。
そしたら、嫁は、
「Kさんが、そうおもうのはそれで仕方がないことじゃないの。大学生と一緒にはたらきたくないとおもったり、それを恥だとおもったりするのは、Kさんの事実なんだから、それは受けとめるしかないでしょう」
でもそんな風に感じるのは、ちょっと情けないとか思わない?と聞くと、
「感じてしまうこと自体は、いいとか悪いとかの問題じゃない。それはKさんの事実なのだから。がむしゃらになれないのもそれはそれでKさんの事実なんだから、受けとめるしかないでしょう、批判したり、否定したりするものではないし、したいとも思わない」
でも、それでこれから経済的に困ったら、怒ったりするんじゃないの?とさらに聞くと、
「それもまたそれで仕方がないし、一緒にがんばるしかないでしょう」
最後に、
「今読んでる本で、その著者(女性)が、男の人は女性を幸せにしてくれるものよ、と書いてあったけど、ぼくはそれができないじゃないだろうか」
と言ったら、
「二人で一緒に幸せになるものでしょう」
とのこと。あっばれ、わが嫁。
久しぶりに求職(バイト)活動して、おもうこと
ぼくは引きこもりではないのですが、外に出ていくことは勇気がいります。
家庭教師協会の登録会に今日も行ってきたのですが、やっぱり自分を売るというのがとても苦手で、そもそも自分にそんな能力あるんだろうか、とか考えちゃうんですね。
そんなこと考えても仕方なくてやるしかないのは、わかっているのだけど、外の世界にでているのにおびえている自分がいます。
まあ、なんて頼りないんだろうとおもうのだけど、そんな風に感じているのがそのままの44歳のぼくなのです。
やっぱりちょっと年齢のことは気になっていて、いい年してまだこんなところでうろうろしているのかと思うと恥じる気持ちがでてきます。
先だって、小中の幼馴染と3人であったんだけど、2人とも当たり前だけど一人前になって、社会の中で戦って生き抜いていく力を身につけているんだろうなとおもいました。
ふう~、ぼくはなんだかなんにも実績ないし、半端だし、一人前といえるものがなにひとつなくて、 それでこんな年くってしまって、あららという感じです。
弱音ばかりで、情けない、きょうこのごろです。
読んでくれた方、どうもありがとうございました。
過去のものにはなかなかできないいじめ体験の亡霊
今日はセラピストの勉強会でした。
小人数でやっているのですが、コーチを中心に、一対一で模擬セッションをやって、みんなで評価するというものです。
ぼくはこの評価するというのがとても苦手なのです。もちろん、自分の心の中では評価しているのですが、それを発表するのが苦手なのです。
自分の評価や感じたこと、意見をみんなの前で率直に言うことに臆病なのです。
自分のそれが間違っていたり、的を得ていなかったりしたらどうしようと思うのですね。
どうしようというのはつまり、自分が未熟で実力がないのを恥じるという気持ちがあるからだとおもうのです。
勉強会の場だから、間違ってもいいし、失敗してもいいのですが、それがあきらかになるのがとてもこわいのですね。
こわいには2つあって、一つは、自分の実力不足や未熟さが露見して、下に見られるとか、軽んじられるのが恐い、つまり逆にぼくのほうが低く評価されてしまうのではないかという恐れ。
もう一つは、自分の意見がコーチとかの指摘で間違いだったということがわかったとき、自分自身に対し、失望というかがっかりしちゃうことに対する恐れです。
昔、とても自分に失望することがあっても、それはぼくにとってとても残念で悲しいことだったので、だからもうあんな風に自分に失望したくないということだとおもいます。
いま書いていて、やはりいまだにその時の体験が現在のぼくにとっても失望に値するものだということに気づいてしました。
それはつまりいまだにぼくはあの時の自分を許せていないということでしょうか。
そして同時にそれは、ぼくの愚かさをやり玉に挙げられて、侮辱された体験だったので、それが現在の自分の至らない点や未熟な点、劣る点を見せたくない、それが露見するような可能性から自分を閉じてしまうという条件反射につながっているのだとおもいました。
中学時代のいじめの体験なのですけどね。
昔のことだけ、なかなかしつこく亡霊が付きまとっています。