人生悲喜こもごも

演劇、哲学、うつ、人間関係など、日々感じたり考えたことを書きます。

対人恐怖傾向と自己否定感はつながっている

人とつながっていくのが苦手です。対人恐怖傾向があるからだと思います。

 

演劇グループを主宰して、数年が経つのですが、いつまでたっても、横のつながりができません(グループ関係者とのつながりはあるのですが)。まあそれはそれで理由がないわけではないですが、特に人との協働というのが苦手なのです。声をかけたり、歩み寄ったりするのが。

 

やっぱり、人の目が気になっちゃうんですね。ぼくなんかが声かけても、「なんだお前は」「お前ごときが」と思われてしまうのではないかと思ってしまい、声がかけられなくなり、委縮してしまうのです。

 

それはイコール、「ぼくごときが」とおもってしまうぼく自身の内面を投影しているのだろうとおもいます。

 

もともと過去のトラウマで、自分を卑下する癖があるのですが、それを強化しているのが、現在収入をえる活動ができていないということだとおもいます。

 

一応収入がなくても、いまのところ生活ができてるのです。そういういまだからこそ何か力をつけて、それこそ努力して、収入に結びつけられるようにがんばらなければならないと強くおもっているのですね。しかし実際には、そこまでがんばれなくて、無為に過ごしたり、無駄にお金使ったりしている自分がいて、そんな自分が認められなくて、許せなくて、それをぼくは恥じているのです。

 

なんていうんですかね、みんな必死で生活のために苦労しているのに、そういう意味での苦労をしていない、または努力が半端にしかできていない自分に対して、自責の念がわいてくるのです。

 

そうなるとそんなだめな恥ずかしい自分が、ひとに歩み寄るというか、声をかけても、「なんだお前は!」と言われてしまいそうで、恐れが出てしまって、前へ出ていくことに臆病になってしまうのです。

 

ひとつ今日わかったことは、自分は、頑張らなきゃいけない、頑張らないのはダメだと思っている、ということです。

頑張れない自分はだめだとおもっているのですね。しかし本当に、がんばれない、その意味で、できない自分というのはダメなのか、本当にそうなのかということを考えています。

 

他人のことは寛容になれるんですけどね、つまり頑張ってないからと言って人をダメな奴だなどとおもわないのです。しかしどうしても自分のことになると頑張れる自分であってほしいのだとおもいます。そしてがんばれない自分はゆるせない、だから責めるみたいなことの繰り返しだったようにおもいます。

 

そして自責の念や自分はダメだという自己否定感がつよくなると、対人恐怖傾向も強まってしまうようにおもいます。

 

少しづつでもいいので、頑張れない自分や、できない自分をそのままの自分としてやさしく受け止めてあげらるようになりたいです。