努力信仰を手放すということ
ぼくはがんばることをいいことだと思っているのです。
10代20代は努力教の信者だったとおもいます。
努力さえすれば報われる、なんでもかなえられると思っていた時期があったのです。
10代はちょうど高校受験大学受験に巻き込まれて、まあぼくなりに受験勉強がんばったんですよね。それはそれでプライドになっていたとおもいます。
20代に入ってすぐにうつ病を発症しました。
一番つらかったのはがんばることができなくなったことです。
努力教の信者にとってがんばれないことは、とてもつらいことです。なぜならがんばることが自分のプライドの拠り所であるからです。
がんばれないというのは主観的なことかもしれませんが、例えば、一日中ずっと寝ているとか。立てた計画の五分の一もこなせないとか。
そういうことをすごく苦にして、自分はダメ人間じゃないかと絶望したり、失望したりしていました。
20代の後半には、自分が努力教の信者だということにようやっと気づきました。もう努力することを自分のプライド(評価の基準)にするのをやめようとおもいました。
人の人生の中ですごい努力して結果を出したというのは、時の運みたいなところもあって、努力できたとすればそれ自体が偶然のたまものなのだとおもいました。そんなたまたまなことを自分の拠り所にするのは無理があるとおもいいたったのです。
努力の価値が自分の中で、絶対的なものではなくなり、努力できなくても、それはそれで仕方のないことだし、それだけで、自分をだめな人間だとおもうのはもうやめようとおもいました。
他人の努力は尊敬すべきものだけども、その人の努力だけをとって、その人を評価するということもだいぶ無くなりました。ひとを評価したり尊敬したりする基準は、努力もあるけど、それだけじゃないいろいろな要素があるんだとおもうようになりました。
そんな感じで、努力教の信者はやめたつもりだったのに、40代のいま気づいてみると、現状がんばれていないと感じる自分を強く責める気持ちが再び出てきているようにおもいます。それに加えて20代の時にはなかった、恥の気持ちも出てきています。
がんばらなきゃいけないのにがんばれない自分に、自責と恥を感じるのです。
ぼくはいまでも努力教の信者のようで、努力することに強いあこがれを持っているようです。手放したとおもった努力への信仰をいまだ手放せていなかったのでした。
その努力への執着がいまのぼくを苦しめていることも確かなので、もう一度がんばることの意義、人生の意味について考えてみようとおもうきょうこのごろです。