過去のものにはなかなかできないいじめ体験の亡霊
今日はセラピストの勉強会でした。
小人数でやっているのですが、コーチを中心に、一対一で模擬セッションをやって、みんなで評価するというものです。
ぼくはこの評価するというのがとても苦手なのです。もちろん、自分の心の中では評価しているのですが、それを発表するのが苦手なのです。
自分の評価や感じたこと、意見をみんなの前で率直に言うことに臆病なのです。
自分のそれが間違っていたり、的を得ていなかったりしたらどうしようと思うのですね。
どうしようというのはつまり、自分が未熟で実力がないのを恥じるという気持ちがあるからだとおもうのです。
勉強会の場だから、間違ってもいいし、失敗してもいいのですが、それがあきらかになるのがとてもこわいのですね。
こわいには2つあって、一つは、自分の実力不足や未熟さが露見して、下に見られるとか、軽んじられるのが恐い、つまり逆にぼくのほうが低く評価されてしまうのではないかという恐れ。
もう一つは、自分の意見がコーチとかの指摘で間違いだったということがわかったとき、自分自身に対し、失望というかがっかりしちゃうことに対する恐れです。
昔、とても自分に失望することがあっても、それはぼくにとってとても残念で悲しいことだったので、だからもうあんな風に自分に失望したくないということだとおもいます。
いま書いていて、やはりいまだにその時の体験が現在のぼくにとっても失望に値するものだということに気づいてしました。
それはつまりいまだにぼくはあの時の自分を許せていないということでしょうか。
そして同時にそれは、ぼくの愚かさをやり玉に挙げられて、侮辱された体験だったので、それが現在の自分の至らない点や未熟な点、劣る点を見せたくない、それが露見するような可能性から自分を閉じてしまうという条件反射につながっているのだとおもいました。
中学時代のいじめの体験なのですけどね。
昔のことだけ、なかなかしつこく亡霊が付きまとっています。