人生悲喜こもごも

演劇、哲学、うつ、人間関係など、日々感じたり考えたことを書きます。

精神的価値が高いとはどういうことだろう?

自分は精神的価値が高い、そうおもいたいのです。

 

そんな憧れがあります。

 

なんででしょうね。うつもある、収入もない、現実的には何にもいいところがないから、せめて精神的にはいいところがあるとおもいたいのでしょうか。

 

精神的価値って、何かというと、実は自分でもはっきりはわからないのですが、理解の深さみたいなことなのかな、あるいは、人格とか徳、人柄のよさのことを言うのかもしれない。

 

こう書いてみると、自分にはあまりないような気がするけど、でも自分は精神的価値が高いとおもいたいのです。いやな奴だろうか?

 

話がちょと変わりますが、

欲望について考えてみるに、色欲、富の欲、権力欲、知識欲、いろいろあるけど、最終的に行きつくところは名誉欲じゃないかとぼくはおもうのです。

 

名誉欲とはひとから尊敬されたい欲望のことで、これが最大の欲で、しかも大いなる矛盾は、欲望から一番離れているところにあるひとが、一番尊敬に値する人なのではということです。ぼくはそんな風におもいます。

 

そう考えると精神的価値の高さとは、一番欲望から離れたところにあるような人のあり方のことをいうのかな。

 

ぼくが自分を精神的価値が高いとおもいたいのも、やはりそれが何か尊敬に値するもののようにおもえるからなのでしょうか。

 

しかし人間から欲望を取り去ることなどできるのでしょうか?欲望のない人間を人間と呼べるだろうか?欲望あるのが人間なのじゃなかろうか。

 

欲望があるのかもしれないけど、欲望からとても離れたところにいるのが、聖人と歴史上いわれてきた人なのでしょう。イエス、孔子、釈迦、彼らは一体どういうあり方をしていたのだろう。

 

聖人のあり方の話は難しくてとてもできないのですが、どうも精神的価値とは、欲望と離れたところにあるあり方だということが、書いていてわかってきたようにおもいます。そしてそうなると自分が精神的価値が高いというのも、かなり疑わしくなってきました。

 

自分は精神的価値が高いとおもうなら、まずは自分の欲望について考えてみなければならないのだ、ということにおもいいたった次第です。

 

 

努力信仰を手放すということ

ぼくはがんばることをいいことだと思っているのです。

 

10代20代は努力教の信者だったとおもいます。

努力さえすれば報われる、なんでもかなえられると思っていた時期があったのです。

 

10代はちょうど高校受験大学受験に巻き込まれて、まあぼくなりに受験勉強がんばったんですよね。それはそれでプライドになっていたとおもいます。

 

20代に入ってすぐにうつ病を発症しました。

 

一番つらかったのはがんばることができなくなったことです。

 

努力教の信者にとってがんばれないことは、とてもつらいことです。なぜならがんばることが自分のプライドの拠り所であるからです。

 

がんばれないというのは主観的なことかもしれませんが、例えば、一日中ずっと寝ているとか。立てた計画の五分の一もこなせないとか。

そういうことをすごく苦にして、自分はダメ人間じゃないかと絶望したり、失望したりしていました。

 

20代の後半には、自分が努力教の信者だということにようやっと気づきました。もう努力することを自分のプライド(評価の基準)にするのをやめようとおもいました。

 

人の人生の中ですごい努力して結果を出したというのは、時の運みたいなところもあって、努力できたとすればそれ自体が偶然のたまものなのだとおもいました。そんなたまたまなことを自分の拠り所にするのは無理があるとおもいいたったのです。

 

努力の価値が自分の中で、絶対的なものではなくなり、努力できなくても、それはそれで仕方のないことだし、それだけで、自分をだめな人間だとおもうのはもうやめようとおもいました。

 

他人の努力は尊敬すべきものだけども、その人の努力だけをとって、その人を評価するということもだいぶ無くなりました。ひとを評価したり尊敬したりする基準は、努力もあるけど、それだけじゃないいろいろな要素があるんだとおもうようになりました。

 

そんな感じで、努力教の信者はやめたつもりだったのに、40代のいま気づいてみると、現状がんばれていないと感じる自分を強く責める気持ちが再び出てきているようにおもいます。それに加えて20代の時にはなかった、恥の気持ちも出てきています。

がんばらなきゃいけないのにがんばれない自分に、自責と恥を感じるのです。

 

ぼくはいまでも努力教の信者のようで、努力することに強いあこがれを持っているようです。手放したとおもった努力への信仰をいまだ手放せていなかったのでした。

 

その努力への執着がいまのぼくを苦しめていることも確かなので、もう一度がんばることの意義、人生の意味について考えてみようとおもうきょうこのごろです。

 

 

嫁のいない夜

いま帰宅したところ。嫁のいない日の第1日目の夜です。嫁は昨日からニュージーランドに12日間遊びにいっているのです。

 

5年の結婚生活の中で、ずっとやってきたこと、それは帰ったら、きょうはどうだった?と互いにきくことでした。

 

きょうは人とも会って、いろいろ考えることが多い一日でしたが、帰りすがら嫁に話そうかとおもったのだけど、そうだ、きょうは話す相手がいないんだと思い出す。なんとも言えず違和感。寂しいような物足りないような。おお!これが独りの夜というものかとおもう。

 

この5年間当たり前にやってきたことが、実は当たり前でないことに気づく。

 

ぼくは独りでいるの平気なほうだし、独りでいるのが結構好きなほうだけど、嫁の影響を受けたのか、密な関係を続けてきたせいか、夜独りでいることが、なにか落ち着かないのです。

 

いつもは11時過ぎると、嫁が、ぼくにもう寝なさいというプレッシャーをかけてくるのですが、それがない夜は、妙に落ち着かないのです。寝室の隣に嫁がいないのもなんか落ち着かない。嫁も隣の寝床に入って、それで本当に寝る気になるのが習慣なのです。

 

愛妻家というわけではなく、どっちかっていうと恐妻家なのですが、どっちも似たようなものかとおもう。

 

しかし、なんだかんだできょうは疲れたので、おとなしく風呂入って、猫に薬のませて寝ます。

 

嫁さん、ご無事を祈っています。

 

自信をつけるためには、自己卑下する癖を取る必要がある

自分の長所や人から評価されるのを受けとめるのがぼくは苦手なのですね。

 

この間の公演が終わった後、嫁がぼくをほめてくれました。「ここまでみんなをまとめて楽しくやれたのはKさんの力だよ」って。嫁も演劇グループのメンバーなのです。

 

ぼくは、ああそうかなあ、で終わり。せっかくほめてもらったのに、それはあまり自分の中に入ってこないのです。むしろ、そんなことは大したことではない、ささいなことだ、としてしまうのです。過小評価してしまうのです。

 

一方で自分への批判や非難はものすごく真に受けてしまいます。人のネガティブな指摘を何十倍にも大きくとり、自分の体の中にこれでもかというばかりに言い聞かせるのです。ほらみろ、だからお前はだめなんだ!みたいな感じで自分をいびっていしまうのです。

 

これはどういうことになるかというと、

①人のいい評価をスルーしてしまうので、いつまでたってもそれが自信として積みあがらない。

②人の批判を実際より大きく受け取って真に受けてしまうので、ますます自信がなくなり、自己否定感が強まる。

 

どうして、このようなことになるのかと考えてみるに、それは中学時代のいじめのことにつながりがあるとおもいます。随分とバカにされて、見下されました。ぼくはいじめ加害者が怖くて何も反抗できませんでした。そんな彼に、お前ごときが!といつも侮辱されていたので、知らず知らずのうちにそれを内面化してしまって、今では誰もそんなこといっていないのに、おれごときにそんなことあるはずはない、ほめられたとしても些細なことだとおもってしまうのです。いい評価を自分の中に取り込むことを拒否してしまうのです。そして批判されたり非難された場合は、それを真に受けてしまい、ああ、やっぱりぼくはダメだったのかあ、とマイナスのメッセージを妙に自分の中に落とし込んでしまうのです。

 

この「ぼくごときが」「おまえごときが」という声をいい加減消していきたいのですが、なかなか根深くぼくの中にしみついていて、なかなかそれから自由になることができません。

 

少しづつでも、自分のことを大切にできるようになり、自分のいいところを自分自身に認めてあげることができるようになりたいです。

 

それがきっと自信をつけていくことにつながるんだとおもいます。

 

 

嫁が海外旅行に発ちました

嫁が大型休暇をとりまして、きょう、ニュージーランドに向けて発ちました。

 

お友達と二人で12日間の海外旅行です。

 

きょうから猫と二人でお留守番です。

 

意外なことに、結構さびしいです。

 

結婚して5年、今回のように長く離れることはなかったので、嫁と離れて、自分のことや嫁とのことを振り返る、いい機会かもしれません。

 

嫁はね、ぼくのこと、あなたは素敵なひとだって、いまだに言ってくれます。貴重な存在ですよね。

 

ぼくとしては、嫁をこれからも大切にしていくしかない、と心あらたにしております。

 

大切にすると言っても、力のない、甲斐性のない亭主だから、せめて彼女の苦手なところをフォローしてあげること位しかできないのですがね。家事と猫の世話ですかね。

 

嫁もぼくも海外旅行なんてほとんど行ったことがないので、とにかく嫁が楽しんで無事に帰ってきてくれることを祈ります。

 

明日から、ひさびさのシングルライフを語ろうかな。

 

 

 

 

結果重視で、不幸になっているわたし

結果よりもプロセス(過程)が大事だとよく言われる。

すごくよくわかるし、ぼくもそうしているつもり、、、だったんだけど、どうもぼくは結果をすごく重視する人間みたいなのです。

 

1月にぼくの主宰する演劇グループの公演がありました。1年近くかけて、稽古して、本番の公演を迎えたのですが、公演がおわっても、いまいち気が晴れず、しばらくもんもんとしておりました。理由は、今回の公演はダメだったんじゃないかというおもいに囚われてしまったことです。お客さんの評判が、つまらない、面白くなかった、というものではないかとおもうと、1年かけてやった達成感よりも、つまらないものを見せてしまったという恥と後悔の念が残ってしまって、なんら喜ぶ気になれないのです。

 

しかし公演にむけて稽古してきたこの1年間を振り返ってみると、ぼくもグループのメンバーも精一杯がんばっていたと思うし、誠意をもって稽古に臨んでいたとおもうので、公演までのプロセスはなんら恥じるところはないし、誇りにおもってもいいのではないかとさえおもえます。

 

それなのに、結果が悪かったのではないかとおもうと、それまでの努力がゼロ以下のもののようにおもえてしまってつらいのです。公演のたった2日間で、それまでの1年間がくだらないことのように感じてしまうのです。

 

一方でそのように感じるのは、何よりもぼくについてきてくれたグループのメンバーに大変失礼なことであって、そんな風に考えちゃいけないとおもうのです。ただ、結果がだせなかったというおもいに囚われしまうと、気分悪くうつうつとしてしまうのです。

 

そんな話を知人にしてみたら、「Kさんは、結果重視なんですよ」、と指摘されてしまいました。ぼくの中では、プロセス重視でやって、その後に結果が付いてくるまでだ、それは運もあるし、ベストを尽くしたのならそれでいいじゃないかという風に考えられていると思っていたのですが、どうもまだまだだったようです。

 

そしてつくづく結果重視はつらいなあと思いました。確かに演出者なので結果にこだあることも大事ですが、それによって、それまでの努力や誠意も無に帰そうとするのは、なかなかに自虐的(メンバーに対しては)他虐的です。

 

その辺も、自分に厳しいというか、自責的な傾向が反映しているのだとおもうのですが。自責的な人が結果重視になるととても不幸です。

 

まだ気持ちはすっきりしなくて、引きづっているところもあるけれど、改めて、結果重視という自分の傾向を反省して、自分を不幸にしないようになっていければいいなとおもっているところです。

 

 

人からバカにされても、自分を責めない生き方

ぼくは人にバカにされやすい気質なのですね。

 

そういう生まれついての気質があるかどうかわからないですけど、なんとなくそう感じています。それを自分では結構困るなあと思っているのです。

 

他人が自分を軽んじてきたとき、瞬時に、「なんだその態度は!」と切り返せればいいんですよね。ぼくにはその反射神経が鈍いみたいで、あとあとになってから、あれはぼくを軽んじていたんじゃないかしら、とおもって、腹が立ってくる。

 

バカにされにくい人は、ぼくの知る限りでは、それに対する反射神経がすごくいい。高校時代、ある同級生に結果としてちょっとからかうようなことを言ってしまったことがあって(具体的になんて言ったかは覚えていません)、そしたらその人に「Kさん、けんか売ってんの?!」と間髪入れずに言われてしまいました。もうぼくなんかそう言われただけでびっくりしちゃって、慌てて、「ごめん、ごめん、からかうつもりで言ったんじゃないんだ」と弁解して、ゆるしてもらいました。そしてその人をすごいなあとおもいました。

 

人を軽んじたり、もちろん自分が軽んじられたりすることは、基本あってはならないから、なめた態度とってきた相手には、すぐにそういう断固とした態度?毅然とした態度?つまりそのことに関してはオレは譲らないよ、みたいな態度をとってしかるべきなのですよね。

 

どうもぼくはその辺のことが弱くて、特に意地悪な態度されるのが苦手で、結構なめた態度とられても、その場はひるんで、あとになってから、腹が立つのパターンが多いのです。

 

相手のなめた態度は許さないという反射神経?能力?は、学生時代だけでなく、大人になって社会にでてからも必要な能力だよなあとつくづく感じます。

 

ぼくは人から軽んじられると、ぼくに至らないところがあるからと思ってしまいがちなのですが、たとえぼくに至らないところがあったとしても、それと、ぼくが軽んじられていいとういことにはならないんだ、それは相手がおかしいし、それについては、相手が至らないものだとおもっていいのだと。そのことで相手に文句言ってもいいんだと。それが正解なのだとおもいます。

 

しかしぼくだけに限らず、きっと相手の意地悪に毅然と立ち向かうことができないひとはいるとおもいます。ぼくのように意地悪が苦手で、ひるんじゃう人もいるとおもいます。なめた相手に対して強い態度に出るのは正しいことだとしても、現実は、自分自身は、そこまで強くでれないのです。

 

だとすれば、ぼくができることはそんな弱くてかっこよくない自分を許し、受け入れることなのだとおもいます。だってそうしないと弱い自分を責めちゃうから。自分責めると余計につらくなっちゃう。そういう弱いできない自分を許すことは正しいことかどうかわからないけど、真実に近いのじゃないかなあとおもうのです。

 

相手にしっかり言っていくスキルは必要ですが、自分をゆるし受け入れることで、弱い自分を責めるという葛藤からは多少免れられるのかなと、今はおもえるようになってきました。

 

意地悪はつらいけど、それにしっかり抵抗できない自分に失望するのは、なるべくやめていきたい、いまはそんな風におもっています。