人生悲喜こもごも

演劇、哲学、うつ、人間関係など、日々感じたり考えたことを書きます。

20年来の慢性うつ病者の悲願

おそらく慢性の精神疾患者の悲願は、自分の体験と苦労をなんらかの形で社会の役に立てたいということではないでしょうか。

 

ぼくは、中学のときの10か月間のいじめが原因で、抑うつ状態になり、大学まではなんとか入学したものの、2年生になるころには精神的に破たんしてしまいました。

そこではじめて精神科とつながり、うつ状態だと診断されて、以来20年以上にわたりうつを抱えて生きてきました。

 

40代も半ばに差し掛かろうとしていますが、仕事についたり、休んだりの繰り返しで、そのつど一生懸命生きてきたのですが、やってきたことはどれもはんぱで、なにひとつプロフェッショナルというものを築けていないのです。

 

そんなぼくがいままで生きてこれたのは、とてもラッキーだったのだとおもいます。

 

でもやはりひとに誇れるものがないというのは、とても悔しく残念です。

 

ぼくのいじめ体験とうつ病は、運命だったのだとおもっています。そしてこのいじめうつの後遺症はこれからも続いていくのだとおもいます。

 

運命は甘んじて受け入れるしかないけれど、でもぼくはその運命を生かしたいとおもうのです。

 

こんなぼくだからこそできることがあるのではないか、社会に役立てることがあるのではないか、ぼくは社会の役に立ちたいし、自分の運命をいかして役に立ちたいとおもうのです。

 

ぽんこつなぼくで、どうやったらそれができるのか、日々苦闘悶々としていますが、でもやっぱりぼくはそれを欲せずには、願わずにはいられないのです。

 

過去のことはすっぱり忘れて、新しく生まれ変わるのではなく、過去と現在の生きづらさにからめとられながらも、その中で自分を生かしていく道を模索しています。

 

それがぼくの悲願なのです。

 

人の個性が本来意味することとは?

人の個性は、その人の人間関係にあらわれるんじゃないかとおもっています。

 

個性と言っても、人間は「モノ」じゃないから、PCでいえば、CPUがいくつとか、メモリやハードディスクの容量とか画面の大きさとかそういった「属性(能力や特徴)」が個性をあらわすとはおもえません。人間で言えば、身長、体重、容姿、学歴、職業といったものは全部その人の属性だとはいえますが、それとその人の個性とは本来違うのではないかとおもうのです。

 

ぼくは人間とは「人間関係」のことではないかとおもいます。

卑近な例では、大昔のドラマ、武田鉄矢金八先生の言葉、「「人」という字は、人と人とが支えあって、「人」になっている」、が思い出されます。人と人とが支えあっているかどうかは疑問におもうところもありますが、少なくとも、人と人とが関わりあうところ(人間関係)に、人間があるということは言えるようにおもうのです。

 

だとすれば人の個性というものも、その人の属性にではなく、その人の他者とのかかわり方・つきあい方にあらわれるのではないかとおもうのです。

 

人間関係のあり方は、2つにわかれるとおもいます。

①相手を受けいれる人間関係

②相手を無視する人間関係

 

①は、相手を尊重し、親切で、やさしい、関わり方です。人と関わりを持つとは本来このことを言うのではないでしょうか。

②は、相手の気持ちや意見、状況・立場をないがしろにすることです。相手の存在を無視するとは、人間関係のあり方というより人間関係の破たんを意味するのはないかとおもいます。

 

現実の人間関係は、相手を受け入れる一方で、受け入れられない部分、つまり無視したい部分もあるといった、受容と無視の綱引きの中にあるようにおもいます。

 

例えば、友人の努力家なところは、すごい認めるし、尊敬するけど、自慢家のところは、うざいとか。彼女の料理が上手なのはすごいいいのだけど、いちいち干渉することろがいや、みたいな。

 

人間とは、人間関係のことであり、人間関係とはいま目の前の他者を受け入れることにあるのだとすれば、人の個性とは、他者をどれだけ尊重し、受け入れることができるのかにかかっているのではないかとおもいます。

 

したがって、個性をあらわす表現は、人間関係にかかわる言葉、やさしい、親切、謙虚、冷たい、意地悪、傲慢等、といったことばであらわされるのが適当ではないかとおもいます。

 

二枚目だとか、才能があるとかはやはりあくまで属性なのであって、その人の特徴ではあっても、個性をあらわすことばにはならないようにおもいます。

 

人との関わり方、人をいかに受け入れるかに、その人の個性があらわれるというのが今回の記事の結論となります。

 

 

自分のことを大切にすることは難しい

自分を大切にすること、自分にやさしくすることは、なかなか難しいです。

 

ついつい自分のことだと、厳しく冷たくなっちゃうのです。悪意がめばえちゃうのです。

 

今年の初めにやった公演も、ちょっとでも悪い評価を聞かされると、もう目の前真っ暗になってしまって「なんて自分はくだらないものを作ってしまったんだろう!?」と思ってしまい、自己卑下し、作品そのものの出来だけでなく、それまで1年近くかけて準備してきた努力も、くだらいないことのように思えてしまうのです。

ぼくは演出で、出演してくれた7人のメンバーがいるのですが、その人たちにも、ぼくのくだらない演出についてこさせて申し訳ない、と自責の念にかられてしまうわけです。

 

ただ一生懸命やったし、誠意をもって十分準備して作ってきたことに対しては、なんら恥ずかしことはないとおもっているのです。

 

しかし、悪い評価には過剰に反応してしまって、ここぞとばかりに自分を責めたり、冷たい態度をとったりする癖が自分にはあるのです。

 

自分を大切にするとは、自分の親友に接するときのように自分にも接することだ、とどこかの本に書いてありました。

 

もしこれがぼくの親友の舞台だとしたら、彼が一生懸命作ったものに対して、他の人がどういおうが、「君、くだらないものを作ってしまったね」なんて冷たいことは絶対に言わないし、その友人が時間をかけて努力してきたことを尊重し、ねぎらうとおもうのです。

出演者に対しても、上演はうまくいかなかったかもしれないけども、誠意をもって演出したんなら、恥じることはないし、自分を責める必要もないよ、と言って上げれるのではないかとおもいます。

 

それが自分の舞台のことになると、全然そうはおもってあげられなくて、あたかも仇敵のように自分に対し冷酷に接してしまうのです。

 

ひとのことは尊重できるのに、自分にはどうしてやさしくできないの、とおもってしまうのだけど、本当は他人のことも尊重できなくて、ただ外づらをよくしているだけかもしれない、本当の自分は悪意に満ちているだけじゃないかとおもえてもきます。

 

他人に対する悪意も危険なものだけども、自分に対する悪意もそれにおとらず、危険で恐ろしいもののようにおもえます。

 

どうやったらこの悪意というものと縁を切れるのやら。そんなことをおもった夜でした。

 

精神的価値が高いとはどういうことだろう?

自分は精神的価値が高い、そうおもいたいのです。

 

そんな憧れがあります。

 

なんででしょうね。うつもある、収入もない、現実的には何にもいいところがないから、せめて精神的にはいいところがあるとおもいたいのでしょうか。

 

精神的価値って、何かというと、実は自分でもはっきりはわからないのですが、理解の深さみたいなことなのかな、あるいは、人格とか徳、人柄のよさのことを言うのかもしれない。

 

こう書いてみると、自分にはあまりないような気がするけど、でも自分は精神的価値が高いとおもいたいのです。いやな奴だろうか?

 

話がちょと変わりますが、

欲望について考えてみるに、色欲、富の欲、権力欲、知識欲、いろいろあるけど、最終的に行きつくところは名誉欲じゃないかとぼくはおもうのです。

 

名誉欲とはひとから尊敬されたい欲望のことで、これが最大の欲で、しかも大いなる矛盾は、欲望から一番離れているところにあるひとが、一番尊敬に値する人なのではということです。ぼくはそんな風におもいます。

 

そう考えると精神的価値の高さとは、一番欲望から離れたところにあるような人のあり方のことをいうのかな。

 

ぼくが自分を精神的価値が高いとおもいたいのも、やはりそれが何か尊敬に値するもののようにおもえるからなのでしょうか。

 

しかし人間から欲望を取り去ることなどできるのでしょうか?欲望のない人間を人間と呼べるだろうか?欲望あるのが人間なのじゃなかろうか。

 

欲望があるのかもしれないけど、欲望からとても離れたところにいるのが、聖人と歴史上いわれてきた人なのでしょう。イエス、孔子、釈迦、彼らは一体どういうあり方をしていたのだろう。

 

聖人のあり方の話は難しくてとてもできないのですが、どうも精神的価値とは、欲望と離れたところにあるあり方だということが、書いていてわかってきたようにおもいます。そしてそうなると自分が精神的価値が高いというのも、かなり疑わしくなってきました。

 

自分は精神的価値が高いとおもうなら、まずは自分の欲望について考えてみなければならないのだ、ということにおもいいたった次第です。

 

 

努力信仰を手放すということ

ぼくはがんばることをいいことだと思っているのです。

 

10代20代は努力教の信者だったとおもいます。

努力さえすれば報われる、なんでもかなえられると思っていた時期があったのです。

 

10代はちょうど高校受験大学受験に巻き込まれて、まあぼくなりに受験勉強がんばったんですよね。それはそれでプライドになっていたとおもいます。

 

20代に入ってすぐにうつ病を発症しました。

 

一番つらかったのはがんばることができなくなったことです。

 

努力教の信者にとってがんばれないことは、とてもつらいことです。なぜならがんばることが自分のプライドの拠り所であるからです。

 

がんばれないというのは主観的なことかもしれませんが、例えば、一日中ずっと寝ているとか。立てた計画の五分の一もこなせないとか。

そういうことをすごく苦にして、自分はダメ人間じゃないかと絶望したり、失望したりしていました。

 

20代の後半には、自分が努力教の信者だということにようやっと気づきました。もう努力することを自分のプライド(評価の基準)にするのをやめようとおもいました。

 

人の人生の中ですごい努力して結果を出したというのは、時の運みたいなところもあって、努力できたとすればそれ自体が偶然のたまものなのだとおもいました。そんなたまたまなことを自分の拠り所にするのは無理があるとおもいいたったのです。

 

努力の価値が自分の中で、絶対的なものではなくなり、努力できなくても、それはそれで仕方のないことだし、それだけで、自分をだめな人間だとおもうのはもうやめようとおもいました。

 

他人の努力は尊敬すべきものだけども、その人の努力だけをとって、その人を評価するということもだいぶ無くなりました。ひとを評価したり尊敬したりする基準は、努力もあるけど、それだけじゃないいろいろな要素があるんだとおもうようになりました。

 

そんな感じで、努力教の信者はやめたつもりだったのに、40代のいま気づいてみると、現状がんばれていないと感じる自分を強く責める気持ちが再び出てきているようにおもいます。それに加えて20代の時にはなかった、恥の気持ちも出てきています。

がんばらなきゃいけないのにがんばれない自分に、自責と恥を感じるのです。

 

ぼくはいまでも努力教の信者のようで、努力することに強いあこがれを持っているようです。手放したとおもった努力への信仰をいまだ手放せていなかったのでした。

 

その努力への執着がいまのぼくを苦しめていることも確かなので、もう一度がんばることの意義、人生の意味について考えてみようとおもうきょうこのごろです。

 

 

自信をつけるためには、自己卑下する癖を取る必要がある

自分の長所や人から評価されるのを受けとめるのがぼくは苦手なのですね。

 

この間の公演が終わった後、嫁がぼくをほめてくれました。「ここまでみんなをまとめて楽しくやれたのはKさんの力だよ」って。嫁も演劇グループのメンバーなのです。

 

ぼくは、ああそうかなあ、で終わり。せっかくほめてもらったのに、それはあまり自分の中に入ってこないのです。むしろ、そんなことは大したことではない、ささいなことだ、としてしまうのです。過小評価してしまうのです。

 

一方で自分への批判や非難はものすごく真に受けてしまいます。人のネガティブな指摘を何十倍にも大きくとり、自分の体の中にこれでもかというばかりに言い聞かせるのです。ほらみろ、だからお前はだめなんだ!みたいな感じで自分をいびっていしまうのです。

 

これはどういうことになるかというと、

①人のいい評価をスルーしてしまうので、いつまでたってもそれが自信として積みあがらない。

②人の批判を実際より大きく受け取って真に受けてしまうので、ますます自信がなくなり、自己否定感が強まる。

 

どうして、このようなことになるのかと考えてみるに、それは中学時代のいじめのことにつながりがあるとおもいます。随分とバカにされて、見下されました。ぼくはいじめ加害者が怖くて何も反抗できませんでした。そんな彼に、お前ごときが!といつも侮辱されていたので、知らず知らずのうちにそれを内面化してしまって、今では誰もそんなこといっていないのに、おれごときにそんなことあるはずはない、ほめられたとしても些細なことだとおもってしまうのです。いい評価を自分の中に取り込むことを拒否してしまうのです。そして批判されたり非難された場合は、それを真に受けてしまい、ああ、やっぱりぼくはダメだったのかあ、とマイナスのメッセージを妙に自分の中に落とし込んでしまうのです。

 

この「ぼくごときが」「おまえごときが」という声をいい加減消していきたいのですが、なかなか根深くぼくの中にしみついていて、なかなかそれから自由になることができません。

 

少しづつでも、自分のことを大切にできるようになり、自分のいいところを自分自身に認めてあげることができるようになりたいです。

 

それがきっと自信をつけていくことにつながるんだとおもいます。

 

 

結果重視で、不幸になっているわたし

結果よりもプロセス(過程)が大事だとよく言われる。

すごくよくわかるし、ぼくもそうしているつもり、、、だったんだけど、どうもぼくは結果をすごく重視する人間みたいなのです。

 

1月にぼくの主宰する演劇グループの公演がありました。1年近くかけて、稽古して、本番の公演を迎えたのですが、公演がおわっても、いまいち気が晴れず、しばらくもんもんとしておりました。理由は、今回の公演はダメだったんじゃないかというおもいに囚われてしまったことです。お客さんの評判が、つまらない、面白くなかった、というものではないかとおもうと、1年かけてやった達成感よりも、つまらないものを見せてしまったという恥と後悔の念が残ってしまって、なんら喜ぶ気になれないのです。

 

しかし公演にむけて稽古してきたこの1年間を振り返ってみると、ぼくもグループのメンバーも精一杯がんばっていたと思うし、誠意をもって稽古に臨んでいたとおもうので、公演までのプロセスはなんら恥じるところはないし、誇りにおもってもいいのではないかとさえおもえます。

 

それなのに、結果が悪かったのではないかとおもうと、それまでの努力がゼロ以下のもののようにおもえてしまってつらいのです。公演のたった2日間で、それまでの1年間がくだらないことのように感じてしまうのです。

 

一方でそのように感じるのは、何よりもぼくについてきてくれたグループのメンバーに大変失礼なことであって、そんな風に考えちゃいけないとおもうのです。ただ、結果がだせなかったというおもいに囚われしまうと、気分悪くうつうつとしてしまうのです。

 

そんな話を知人にしてみたら、「Kさんは、結果重視なんですよ」、と指摘されてしまいました。ぼくの中では、プロセス重視でやって、その後に結果が付いてくるまでだ、それは運もあるし、ベストを尽くしたのならそれでいいじゃないかという風に考えられていると思っていたのですが、どうもまだまだだったようです。

 

そしてつくづく結果重視はつらいなあと思いました。確かに演出者なので結果にこだあることも大事ですが、それによって、それまでの努力や誠意も無に帰そうとするのは、なかなかに自虐的(メンバーに対しては)他虐的です。

 

その辺も、自分に厳しいというか、自責的な傾向が反映しているのだとおもうのですが。自責的な人が結果重視になるととても不幸です。

 

まだ気持ちはすっきりしなくて、引きづっているところもあるけれど、改めて、結果重視という自分の傾向を反省して、自分を不幸にしないようになっていければいいなとおもっているところです。