人生悲喜こもごも

演劇、哲学、うつ、人間関係など、日々感じたり考えたことを書きます。

俳優修業者にとって一番大事なこと

20代のころ、役者の養成所に通っていました。フリーの演出家が小人数でやっている私塾でした。

 

ぼくはというと入所したとほぼ同時にうつ病で精神科にかかることになったので、あんまりしっかりと稽古できず、出来の悪い塾生でした。そのときの演出家とは、演劇の師匠としていまでもお付き合いさせていただいています。

 

その師匠が当時稽古場で話された言葉をいまでもよく覚えています。その中で印象に残っていることをひとつ書きたいとおもいます。

 

「俳優修業者にとって一番大事なことは、自分の演技の質を高めることだけだ」

 

演技の質を高めるために、どうしたらいいかを考え、実行すること、これに尽きるというのです。当たり前と言えば、当たり前ですよね。俳優は「演技する」という仕事のなのだから、その品質を高めていく努力をすることは当然ですよね。

 

師匠が言いたかったのは、その当たり前のことをしていない俳優の卵が多いということだったのではないかと思うのです。

 

俳優志望者に多いのは、稽古よりもオーディションを受けることだったり、やみくもに舞台に立つことだったり、実力が伴わないのに、自分を売り込む方に熱心なことです。

 

オーディションも確かに大切ですが、実力がないのに大きなオーディションを受けても結果は明らかなわけです。1万人に一人の才能のある人は別ですが、自分がそれだけの素質がないというのは、そういうのを2、3回受ければわかることです。だったら素質が足りない部分は、地道に勉強して演技力を高めていくしかないのです。すぐ売り出せるだけの素質が自分になければ、役者はやめるという人は別ですが。

 

舞台に立って経験を積むと言っても、やみくもに舞台に立てばいいということではありません。自分の役者としての実力をあげてくれるような公演に参加しなければ意味がないのです。

自分の実力を上げてくれる公演とは、本物のプロの役者が出ている、あるいは明らかに自分より力量のある役者が出ている公演、有能な演出者が演出している公演のことです。

演出者が有能であるかどうかを見極める手段は、事前にその演出家の公演をみることです。それで面白かったなら、その演出家の芝居に出演させてもらえばいいでしょう。プロと名乗ったり、普通にチケット代をとっているからと言って、そのグループの俳優や演出家が一緒にやるに値するかどうかは、全くあてになりません。あくまでも自分の目で見てこの人なら一緒にやりたい、自分の実力が向上するという舞台に出演すべきなのです。

 

現実には、プロと標榜していても、それに値する実力のない役者と演出家で構成された劇団や公演は星の数ほどあって、それらの公演に出演しても、プロを目指す俳優志望者にとっては時間のむだなのです。質の悪いグループの公演にいくら出ても、俳優としての実力は上がらないのです。そんなところでどれだけ経験を積んでも演技の質は上がっていかないのです。

そういう舞台に出るくらいなら、まだバイトして演技の勉強やいい舞台の出演の機会があったときのために貯金に回した方がいいのです。

 

問題は、ただ舞台に出るというだけなら、誰でもお金と時間を確保できれば、出演できてしまうという今の日本の演劇事情と、1万人に一人の才能ばかり探すことに熱心で、そこからはこぼれたけど、時間をかけて育てればいい役者になるかもしれないという俳優の卵の可能性を育てようとしない、日本の芸能関係者の商業主義です。

 

俳優への道は厳しいものだけども、現実をしっかりみて、自分がいま何をしなければならないかということを基準に、修業していってもらえたらと願います。

 

 

結果重視で、不幸になっているわたし

結果よりもプロセス(過程)が大事だとよく言われる。

すごくよくわかるし、ぼくもそうしているつもり、、、だったんだけど、どうもぼくは結果をすごく重視する人間みたいなのです。

 

1月にぼくの主宰する演劇グループの公演がありました。1年近くかけて、稽古して、本番の公演を迎えたのですが、公演がおわっても、いまいち気が晴れず、しばらくもんもんとしておりました。理由は、今回の公演はダメだったんじゃないかというおもいに囚われてしまったことです。お客さんの評判が、つまらない、面白くなかった、というものではないかとおもうと、1年かけてやった達成感よりも、つまらないものを見せてしまったという恥と後悔の念が残ってしまって、なんら喜ぶ気になれないのです。

 

しかし公演にむけて稽古してきたこの1年間を振り返ってみると、ぼくもグループのメンバーも精一杯がんばっていたと思うし、誠意をもって稽古に臨んでいたとおもうので、公演までのプロセスはなんら恥じるところはないし、誇りにおもってもいいのではないかとさえおもえます。

 

それなのに、結果が悪かったのではないかとおもうと、それまでの努力がゼロ以下のもののようにおもえてしまってつらいのです。公演のたった2日間で、それまでの1年間がくだらないことのように感じてしまうのです。

 

一方でそのように感じるのは、何よりもぼくについてきてくれたグループのメンバーに大変失礼なことであって、そんな風に考えちゃいけないとおもうのです。ただ、結果がだせなかったというおもいに囚われしまうと、気分悪くうつうつとしてしまうのです。

 

そんな話を知人にしてみたら、「Kさんは、結果重視なんですよ」、と指摘されてしまいました。ぼくの中では、プロセス重視でやって、その後に結果が付いてくるまでだ、それは運もあるし、ベストを尽くしたのならそれでいいじゃないかという風に考えられていると思っていたのですが、どうもまだまだだったようです。

 

そしてつくづく結果重視はつらいなあと思いました。確かに演出者なので結果にこだあることも大事ですが、それによって、それまでの努力や誠意も無に帰そうとするのは、なかなかに自虐的(メンバーに対しては)他虐的です。

 

その辺も、自分に厳しいというか、自責的な傾向が反映しているのだとおもうのですが。自責的な人が結果重視になるととても不幸です。

 

まだ気持ちはすっきりしなくて、引きづっているところもあるけれど、改めて、結果重視という自分の傾向を反省して、自分を不幸にしないようになっていければいいなとおもっているところです。

 

 

劇団四季の「ライオンキング」の感想

劇団四季の「ライオンキング」を観に行ってきました。

四季のミュージカルを見たのは、小学生のときだから、もう何十年も前のことになります。その時は「キャッツ」でした。面白かった。はじめての四季、はじめてのミュージカルに興奮したのを覚えています。

 

で、久しぶりの劇団四季、「ライオンキング」はというと、

たしかに舞台セットや、演出は面白いところもあるのだが、いま見るとなんか古っぽい感じがした。伝統芸能をみているような感じ。

 

どういうことかというと、確かにクオリティの芝居だと思うんだけど、いまの客にはもうあまりピンとくるものではないのではないかということだ。

 

見ていて、「ああ、そんなんだ~」、と遠くから人ごとのように傍観している感じ。

その芝居に自分がまきこまれていく感じが全然おこらなかったのね。

これがライオンキングだ!どうだ!という提供側の自負みたいなものは見えるけど、いま見てもあまり新鮮じゃないのです。歌もおどりもね。

 

ブロードウェイで大ヒットした作品を演出やセットや楽曲も含めて全部買い取るという四季のやり方、大いに成功したんだろうけど、そんな大ヒット作も、今の客として見ると、あんまりピンとくるものではなかったのです。

 

いまの日本の演劇には、ほんとにお客さんに寄り添った上演が少ないようにおもう。お客さんの反応をほっといて、これは鉄板ですと従来のやり方に固執にしているように思えるのはぼくだけだろうか。

 

うつ病者だけど演劇だけは続けてきたのです

未だに自分探しやってます。

自分が何をやるべきか今まさに考えています。

と同時に、それがまだ見つかっていない自分に、生計をたてられていない自分に、

恥を感じます。

 

もう人生の折り返し地点を過ぎてしまい、これから全く新しいことをやるのも難しいということも感じています。

 

おふくろが、「お前はいつまで勉強やっているんだ」といいます。お稽古事はいい加減にしてなんでもいいから稼いで来いと言います。

 

なんかそんなんでも結果として生きてこれたのがぼくです。

ラッキーだったのだろう、ぼくは人としてインチキなのかもしれない、でもぼくは、そのときそのときで一生懸命生きてきたし、その時々のぼくにとって個々の選択はそうするほか仕方なかったことなのだと本当に思っています。決して怠けていたわけではないのです。

ぼくなりに挑戦してきたつもりです。

 

でもまあ、世間的に言えば、プラプラしているだけなのかもしれないし、結局何にも身に付かない半端ものなのかもしれません。

 

演劇は、ぼくの人生の中でおそらく一番長く付き合ってきたことで、やっぱり最後はこの最大の人生の相棒と、何かつるんでやるんじゃないのだろうかと思い始めています。

 

演劇なんて、大した才能もなく、努力もなく、ただ長々と付き合ってきただけのぼくだけど、でもやっぱ、これを通して自分をいかしていく道がぼくにとって一番自然なことなんじゃないかと思えてきました。

 

いまさらかもしれないけど、いま真剣に、演劇との付き合いとこれからを考えています。

 

これこそ非現実的な妄想なのだろうか。

 

演劇の公演をどう評価するか~アンケート回収率を目安にしてみる

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ぼくはアマチュアの演劇活動をやっているのですが、今年のはじめ(つい3週間位前)に公演があって、きょうは反省会なのです。

 

反省会というと語弊があるのですが、まあ振り返りミーティングですかね。

 

ぼくは演出をやっていて、このミーティングにあたって、やっぱ公演の評価みたいなことを言わなければならないとおもっているのです。つまり、今回の公演は、よかったのか、悪かったのか、ぼくら作った側にとって、そしてなによりもお客さんにとって。

 

でもこれってなかなか難しいのです。

お客さんは大抵、出演者の友達だから、あえてつまらなかった、とは言わない場合がほとんどだからです。そして内輪ではどうかというと、内輪受け、という言葉もあるように、自分たちがやっていたことを客観的に評価するのは極めて難しい。役者は演出に言われたように一生懸命やるしかないし、それでがんばったと思っているし、演出家は、これは実は一番客観的に芝居を見れているはずなのに、意外と自分の演出におぼれていたりして、実はそんなに客観的にみれている演出者は少ないのです。もちろんぼくもそうかもしれません。

 

そんな中で、上演の出来を評価する基準として、ぼくの演劇の師匠が言っていたのは、

「観客の8割が、おもしろいとおもったら、それはきっといい芝居なんだ」

ということです。

 

で、それを評価する基準としてぼくが見出したのは、「アンケート回収率」です。

 

アンケート回収率が目安になるのでは

演劇公演、特に小公演のお客さんは基本、出演者の友達ですから、アンケートを書いてくれたとはいえ、めったに悪いことは書きません。つまらないと思った人は、たいていはアンケートは書かずに、劇場を後にします。だから一枚のアンケートの評価をもって、その芝居の出来をはかるのは大変無理があるのです。

 

そこでぼくが考え付いたのは、アンケート回収率です。

アンケート回収率が8割に届いたら、おおむねその上演はよかったということになるのではないかと。

 

アンケートそのものはあまり悪く書かれなかったとしても、アンケート回収率が動員数に対して、30パーセントだったら、やっぱり、全体としては、お客さんの評判はいまいちだったと言えるでしょう。

 

しかし、友達が書いてくれたアンケートだとしても、回収率が80パーセントだったとすれば、それは観てくれたお客さんの8割がなんらかの形で、その上演を面白いと感じたか、もしくは影響を受けたと思っていいのではないかと思うのです。

 

観ていて何にも感じなかった人は、やはり、何も書かずに出ていくでしょう。

 

そんなわけで、ぼくはアンケート回収率を目安にするとその芝居のおおよその評価を測ることができるのではないかと思っております。

 

芝居の出来ばえの客観的な評価基準として、アンケート回収率を目安にしてみるのはいかがでしょうか。

 

ちなみにぼくのグループの公演のアンケート回収率は、、、

 

内緒です(*^-^*)