人生悲喜こもごも

演劇、哲学、うつ、人間関係など、日々感じたり考えたことを書きます。

部屋が寒すぎて朝がつらい

ぼくの住んでいるマンションの部屋は、12階で最上階なのですが、部屋の中すごく寒いのですね。

 

どれくらい寒いかというと、下着の上にパジャマを着て、その上からセーター着て寝ています。布団は、毛布2枚に掛け布団3枚の5枚重ねしています。足温めようのあんかもつかっています。

 

それでもきょう、朝目が覚めたら、まず寒いことにすぐ気が付きます。のどもちょと痛いです。

 

え、こんなにあたたくしているのに寒い部屋ってどんだけ寒いの!とおもってしまいます。海外旅行中の嫁は、セーターも着ずにパジャマとお布団4枚で寝ていて、そこまで寒くないと言っておりました。

 

ぼくだけ冷え性になってしまったのかしら。

 

仕方がないので、炬燵に入って、それからお布団を上からかけて、暖房つけて二度寝しました。それでやっと体が暖かくなるという状況です。

 

最上階は寒いのでしょうか。ぼくのマンションは、築50年近くになる古いマンションですので、そんなことになるのかしら。

 

とにかく朝目が覚めた時に、寒いと感じるのはきついです。

 

どうしようか、いま困っているところです。まあ、はやく暖かくなってくれればそれで済むことですが、生活がつらいです(;´・ω・)

 

世阿弥が教える役者の究極の心構え

「稽古は強かれ、情識(じょうしき)はなかれ。」

 

これは室町時代の能の大成者、世阿弥の著作『風姿花伝』の中に出てくる一節です。ここでは役者の心構えを記しているのですね。

 

「稽古(勉強)はうんとしなさい、でも、自惚れてはいけないよ」という意味です。

 

稽古をがんばってやり続ければ、舞台でいい評価をもらえるときもあるかもしれないけど、そこで、おれはすごいんだとか、あいつより上だと自惚れてしまったら、それでおしまいだというのです。なぜなら自惚れると必ず稽古が甘くなって、演技の質が落ちてしまうからなのですね。だから評判がでても、決して自惚れず謙虚な姿勢を堅持しつつ、稽古に励み続けなさい、というのですね。

 

これは、演技の道だけでなく、あらゆる芸事や、自分の職業的なキャリアについても同様に言えることだなあとおもいます。

 

どんなことであれ上達しようとしたらたくさん勉強しなければならないのは言うまでもないことですが、ぼくたちは、ちょっとでも結果が出て、例えばいい大学入った、国家試験に受かった、○○賞もらった、とか結果がでると、ついついそれにあぐらをかいてしまいます。そこで努力をやめてしまうのですよね。

 

ぼくが一年浪人したときに通っていた予備校の英語教師が、君たちは大学受験した時が、人生で一番英語力が高い、大学入った後はどんどん落ちていくんだ、と言っていたのをおもいだします。

 

どんなことでも努力し続けなければ、更に上達することはできないし、現状維持もできないのが現実。そして、もっともそれを邪魔するものは、自惚れというわけです。

 

世阿弥の金言は、演技道のみならず、最終的には、人間道にまで通じているところにその古典としての価値があるのだとおもいます。

 

しかし、演劇やっているものとしては、この言葉聞かされると、ほんと耳が痛くて、この先読み続けるのが心理的にとてもむずかしいです。ほんとお師匠さんに説教されているように感じます。そしてぼくの演劇の師匠は、世阿弥の大ファンなのです。

 

 

嫁の海外旅行、ちょと暗雲たちこめる

ニュージーランドに海外旅行中の嫁とは、ほぼ毎日ラインで話をしています。

いや~、便利ですね。通話代もかからないし、顔も見れるし。すばらしい。

 

嫁は好奇心旺盛な人です。英語の勉強がしたい!と言い出したので、評判のいい英語学校を勧めたら、すぐに入学して、勉強をはじめ、もう4年くらいたつでしょうか。英語力は、中学2年生から止まっているとのことでしたが(彼女は高卒です)、ついこの間、英検2級、TOEIC600点越えという偉業!?を達成してしまったのです。彼女の人生でいまが、一番英語力があるときでしょう。お勤めしながらその中で週2回地道に学校に通って勉強してここまできたのです。自分の興味持ったことにはかなり頑張り屋さんです。

 

それで英語学校で仲良くなったクラスメイトに誘われて、このたび、ニュージーランドに12日間行くことになったのです。

 

お相手のクラスメイトは、60代のセレブ主婦で、夫もリタイアし、子どももみな、独立して、現在は悠々自適な生活をしているひとです。年に数回海外にいくということで、仲良くなったうちの嫁を誘ってくれたわけです。彼女のお気に入りのニュージーランドの中でも一番いいところに案内してくれるとのことでした。

 

嫁はそのために大型連休をとったわけではなく、偶然にも、1月末で、勤めていた会社を退職して、2月はまるまるお休みして、3月から新しい職場で働くことになっていて、ちょうどタイミングがぴったり合ったのですね。それでめでたくニュージーランド行きがきまったのです。

 

ニュージーランドに行って、6日がたちました。ところが今日の話では、セレブ主婦とはいつも行動を共にしているわけですが、彼女の話が止まらないというわけです。寝ても覚めても、自分の話をし続けてくるらしいのです。あまりにも自分の話ばかりきかされて、かなり閉口しているとのことです。

 

わたしは今日のラインで、困ったことがあると切り出されたので、きっとホームシックにかかったのかなとおもったのですが、ちょっと違って、人間関係で困ったことになってしまったのですね。セレブ主婦が案内役だし、基本、宿での部屋も一緒なので、あんまりぞんざいな態度はとれないとのことですが、あまりにも自分の話ばかりをきかされて、後6日旅は残っているのだけど、最後まで付き合っていられるかしらと、不安におもっているとのことです。

 

ぼくは嫁に、君が感じていることは彼女に伝えて、少し距離を取った方がいいよと伝えました。そしたらさらに聞くと、自分の話をしてくるだけではなく、どうも、いろいろ指示してくるみたいなのです。嫁はおなか一杯なのに、これも美味しいから食べたら、みたいな感じで、お皿に勝手に乗っけてくるんだそうです。うちの嫁はもともと人から指示されるの嫌いだしなあ、なんか下手すると嫁と姑みたない関係になってしまっているんじゃないかとおもってぼくもちょと心配になってきました。

 

その点、ぼくのおふくろはできた人で、息子の嫁といっても他人のお嬢さんなんだから、安易におもったことを口にだしちゃだめなのよ、と気を付けているみたいです。さすがです。

 

ということで、楽しいだけの旅行にちょっと暗雲がたちこめてきたようですが、それもなんとか乗り越えて引き続き楽しい旅をしてほしいと願うばかりです。

 

アマチュアの劇団とプロの劇団なにがちがうの?

今日は1月の公演後、初の稽古でした。

 

ぼくのところの演劇グループは、主に社会人が中心になって活動をしています。

 

だから稽古は、原則日曜日。公演前になっても日曜日だけの稽古で本番までもっていきます。プロのスタンスの劇団だと本番のための稽古って、2~3か月位なんですけど、その場合でも、1か月から2週間前からは毎日稽古というが普通なんですね。

 

ぼくのところはアマチュアのスタンスでして、メンバーもみんな普通に勤めているひとだから、公演日を一年前くらいに決めて、そのための稽古は8から10か月前からはじめます。日曜日だけでやろうとするとそれだけの期間かけてやらなきゃならないのです。

出演者が10か月間のモチベーションを維持すること、またそのメンバーでの人間関係も維持しなければ、上演までたどり着かないので、リスクはあるし、大変ではありますが、いまのところそれで、5回の公演を実現してきました。だから10か月稽古というのもやれないことはないということでしょうか。

 

今日の稽古は、レギュラーの稽古と言って、公演のためではない稽古です。いわゆる日常訓練の稽古と言いますか、基礎的なことを確認しながら、即興をやったり、短いシーンを作ったりしながら、基礎力向上のための稽古となります。またこのタイミングで、新しいひとを募集して、新人さん、特にはじめて演劇やりますという人を育てるための稽古でもあるのです。育てるというと、おおげさですが、発声訓練とか、セリフを言ってみたり、みんなの前で動いてみたりするのも、生まれて初めての人には、そんなこともはじめは難しいのです。そこそこセリフも言えて、なんとなく動けるようになったら、またその時のメンバーで、公演を企画するという感じで、2年くらいのサイクルで活動を続けているのが、ぼくのところの演劇グループです。

 

プロとアマチュアの違いとは何かというのは、よくいわれることですが、ぼくはこうおもっています。プロとアマチュアはスタンスの違いであって、プロとは、生活の中心を演劇活動においているひとのこと、アマチュアとは、生活の中心は経済活動や社会生活であって、演劇はあくまでにの次ということです。一生懸命やることは、プロもアマチュアも一緒かもしれませんが、どこに生活の中心をおいているかが違うということです。だからプロのほうが高い技術をもっているし、上演も結果としてクオリティが高いものになるということでしょう。そんなふうにぼくは、プロとアマチュアの違いを理解しています。

 

レギュラーの稽古は、隔週日曜日ですので、またぼちぼち新しい人を迎えながら、地道な演劇活動、続けていきたいとおもいます。

 

 

自分のことを大切にすることは難しい

自分を大切にすること、自分にやさしくすることは、なかなか難しいです。

 

ついつい自分のことだと、厳しく冷たくなっちゃうのです。悪意がめばえちゃうのです。

 

今年の初めにやった公演も、ちょっとでも悪い評価を聞かされると、もう目の前真っ暗になってしまって「なんて自分はくだらないものを作ってしまったんだろう!?」と思ってしまい、自己卑下し、作品そのものの出来だけでなく、それまで1年近くかけて準備してきた努力も、くだらいないことのように思えてしまうのです。

ぼくは演出で、出演してくれた7人のメンバーがいるのですが、その人たちにも、ぼくのくだらない演出についてこさせて申し訳ない、と自責の念にかられてしまうわけです。

 

ただ一生懸命やったし、誠意をもって十分準備して作ってきたことに対しては、なんら恥ずかしことはないとおもっているのです。

 

しかし、悪い評価には過剰に反応してしまって、ここぞとばかりに自分を責めたり、冷たい態度をとったりする癖が自分にはあるのです。

 

自分を大切にするとは、自分の親友に接するときのように自分にも接することだ、とどこかの本に書いてありました。

 

もしこれがぼくの親友の舞台だとしたら、彼が一生懸命作ったものに対して、他の人がどういおうが、「君、くだらないものを作ってしまったね」なんて冷たいことは絶対に言わないし、その友人が時間をかけて努力してきたことを尊重し、ねぎらうとおもうのです。

出演者に対しても、上演はうまくいかなかったかもしれないけども、誠意をもって演出したんなら、恥じることはないし、自分を責める必要もないよ、と言って上げれるのではないかとおもいます。

 

それが自分の舞台のことになると、全然そうはおもってあげられなくて、あたかも仇敵のように自分に対し冷酷に接してしまうのです。

 

ひとのことは尊重できるのに、自分にはどうしてやさしくできないの、とおもってしまうのだけど、本当は他人のことも尊重できなくて、ただ外づらをよくしているだけかもしれない、本当の自分は悪意に満ちているだけじゃないかとおもえてもきます。

 

他人に対する悪意も危険なものだけども、自分に対する悪意もそれにおとらず、危険で恐ろしいもののようにおもえます。

 

どうやったらこの悪意というものと縁を切れるのやら。そんなことをおもった夜でした。

 

昨夜は30年ぶりに幼馴染と会ってきました。

昨夜は、小学校中学校が一緒だった幼馴染と3人で会ってきました。

 

いまは便利なものでfacebookで、昔の疎遠になってしまった幼友達ともつながることができて、こういった再開の機会にも恵まれるのですね。

 

二人とも不動産業界に身をおいていて、今では、個人事務所を立ち上げて、経営者として立派にやられています。

 

小学校のころ、スポーツ万能でわんぱくだったA君は、いまでは、ひょうひょうとした感じで人当たりのいいひとになっていて、適度に謙遜で、とにかく明るかった。

 

同じくサッカーが得意で、しかし球技系男子としては、当時性格は温厚で誰とでも仲がよかったB君は、高校卒業後から不動産業界という厳しい世界を渡り歩いて生き抜いてきた叩き上げで、昔に比べると全体的にちょっときつくなったような印象がありましたが、どっしりとした存在感を醸し出していました。

 

どちらも不動産営業の仕事をバックボーンにしているので、不動産の話、特に営業について熱く語っておりました。二人ともほんとにその業界にしっかり根を据えて生きているのだなあと、立派だなあと感慨ひとしおでした。

 

大人の男として、生活をかけて仕事に打ち込んで生きてきた「すごみ」というのが彼らにはそなわっていたのです。

 

ぼくはというと、彼らが20代30代と一番社会にもまれて、実力をつけていた時期に、20代は、ほとんどうつで療養生活、30代ではなんとか社会にでて働くこともできていた時期もありましたが、常に契約社員とか派遣社員の立場だから、仕事の期間がおわると待機になるのです。もちろんその間は無給です。

 

技術職でプログラマーをやっていたのですが、その内、技術者余りの時代がやってきて、仕事に入れない時期も続いて、30代の10年間で実労働期間は6年間くらいで、あとの4年間は、ぷらぷらしていたというのが本当のところです。結局システムの世界からも身を引くことになり、なにかひとつの業務で特化して一人前になったものがあるかというと、残念ながらありません。

 

いまのぼくは何をとってもはんぱで、それが収入にもつなげられていない理由なのかなと思います。一方で幼馴染たちはぼくが寝ている間(^^;)に、いかに一人前になっていったかをまざまざと見させられた感じでした。

 

しかしそれでも小中9年間を過ごした幼馴染は、ぼくにも好意的に接してくれて、それがありがたかったです。集合場所で待っているときは、結構緊張したのですよ。

しかしぼく自身の話は、やっぱりあんまできなかったんですね。

 

中学3年の時、ひどいいじめを受けておかしくなっちゃったことも、20代からうつ病になってほとんど寝ていたことも、いまだに通院していることも、久しぶりにあったついでに軽く話すのにはちょっと難しかった。またいまぼくが皿洗いのバイトでもしようかと思っていることも(いや実行に移すかどうかわかんないけど)なんとなく、言う感じじゃなかったなあ。きちんと話せば理解してくれるとおもうけど、話すんなら3人でというよりも一対一の時かなあとかおもいました。

 

2軒の飲食店を回り、結局、散会は午前零時ちょっと手前。大して遅い時間でもないけど、結婚してから、こんなに遅くなったのは、はじめて位かな。何せ嫁には、午後11時には寝なさいと言われているので。

 

とりとめのない話になってしまいましたが、久しぶりの幼馴染の再開といういことで記事にしてみました。

 

俳優修業者にとって一番大事なこと

20代のころ、役者の養成所に通っていました。フリーの演出家が小人数でやっている私塾でした。

 

ぼくはというと入所したとほぼ同時にうつ病で精神科にかかることになったので、あんまりしっかりと稽古できず、出来の悪い塾生でした。そのときの演出家とは、演劇の師匠としていまでもお付き合いさせていただいています。

 

その師匠が当時稽古場で話された言葉をいまでもよく覚えています。その中で印象に残っていることをひとつ書きたいとおもいます。

 

「俳優修業者にとって一番大事なことは、自分の演技の質を高めることだけだ」

 

演技の質を高めるために、どうしたらいいかを考え、実行すること、これに尽きるというのです。当たり前と言えば、当たり前ですよね。俳優は「演技する」という仕事のなのだから、その品質を高めていく努力をすることは当然ですよね。

 

師匠が言いたかったのは、その当たり前のことをしていない俳優の卵が多いということだったのではないかと思うのです。

 

俳優志望者に多いのは、稽古よりもオーディションを受けることだったり、やみくもに舞台に立つことだったり、実力が伴わないのに、自分を売り込む方に熱心なことです。

 

オーディションも確かに大切ですが、実力がないのに大きなオーディションを受けても結果は明らかなわけです。1万人に一人の才能のある人は別ですが、自分がそれだけの素質がないというのは、そういうのを2、3回受ければわかることです。だったら素質が足りない部分は、地道に勉強して演技力を高めていくしかないのです。すぐ売り出せるだけの素質が自分になければ、役者はやめるという人は別ですが。

 

舞台に立って経験を積むと言っても、やみくもに舞台に立てばいいということではありません。自分の役者としての実力をあげてくれるような公演に参加しなければ意味がないのです。

自分の実力を上げてくれる公演とは、本物のプロの役者が出ている、あるいは明らかに自分より力量のある役者が出ている公演、有能な演出者が演出している公演のことです。

演出者が有能であるかどうかを見極める手段は、事前にその演出家の公演をみることです。それで面白かったなら、その演出家の芝居に出演させてもらえばいいでしょう。プロと名乗ったり、普通にチケット代をとっているからと言って、そのグループの俳優や演出家が一緒にやるに値するかどうかは、全くあてになりません。あくまでも自分の目で見てこの人なら一緒にやりたい、自分の実力が向上するという舞台に出演すべきなのです。

 

現実には、プロと標榜していても、それに値する実力のない役者と演出家で構成された劇団や公演は星の数ほどあって、それらの公演に出演しても、プロを目指す俳優志望者にとっては時間のむだなのです。質の悪いグループの公演にいくら出ても、俳優としての実力は上がらないのです。そんなところでどれだけ経験を積んでも演技の質は上がっていかないのです。

そういう舞台に出るくらいなら、まだバイトして演技の勉強やいい舞台の出演の機会があったときのために貯金に回した方がいいのです。

 

問題は、ただ舞台に出るというだけなら、誰でもお金と時間を確保できれば、出演できてしまうという今の日本の演劇事情と、1万人に一人の才能ばかり探すことに熱心で、そこからはこぼれたけど、時間をかけて育てればいい役者になるかもしれないという俳優の卵の可能性を育てようとしない、日本の芸能関係者の商業主義です。

 

俳優への道は厳しいものだけども、現実をしっかりみて、自分がいま何をしなければならないかということを基準に、修業していってもらえたらと願います。