過去のものにはなかなかできないいじめ体験の亡霊
今日はセラピストの勉強会でした。
小人数でやっているのですが、コーチを中心に、一対一で模擬セッションをやって、みんなで評価するというものです。
ぼくはこの評価するというのがとても苦手なのです。もちろん、自分の心の中では評価しているのですが、それを発表するのが苦手なのです。
自分の評価や感じたこと、意見をみんなの前で率直に言うことに臆病なのです。
自分のそれが間違っていたり、的を得ていなかったりしたらどうしようと思うのですね。
どうしようというのはつまり、自分が未熟で実力がないのを恥じるという気持ちがあるからだとおもうのです。
勉強会の場だから、間違ってもいいし、失敗してもいいのですが、それがあきらかになるのがとてもこわいのですね。
こわいには2つあって、一つは、自分の実力不足や未熟さが露見して、下に見られるとか、軽んじられるのが恐い、つまり逆にぼくのほうが低く評価されてしまうのではないかという恐れ。
もう一つは、自分の意見がコーチとかの指摘で間違いだったということがわかったとき、自分自身に対し、失望というかがっかりしちゃうことに対する恐れです。
昔、とても自分に失望することがあっても、それはぼくにとってとても残念で悲しいことだったので、だからもうあんな風に自分に失望したくないということだとおもいます。
いま書いていて、やはりいまだにその時の体験が現在のぼくにとっても失望に値するものだということに気づいてしました。
それはつまりいまだにぼくはあの時の自分を許せていないということでしょうか。
そして同時にそれは、ぼくの愚かさをやり玉に挙げられて、侮辱された体験だったので、それが現在の自分の至らない点や未熟な点、劣る点を見せたくない、それが露見するような可能性から自分を閉じてしまうという条件反射につながっているのだとおもいました。
中学時代のいじめの体験なのですけどね。
昔のことだけ、なかなかしつこく亡霊が付きまとっています。
家庭教師の登録会に行ってきました
きょうは、家庭教師センターの登録会に行ってきました。
大学生とかがいっぱいいたら、40代のぼくが浮いてしまうのではとおもい、ちょっとやだなと思いましたが、小人数の登録会で他の登録者の目を気にすることもなくはじまりました。
講師登録書と適正検査はよかったのですが、それとならんで、健康調査票というのが入っていたのです。
ぼく、うつ病歴20年選手、そんなこと書きたくない、とおもいましたが、そういうこときいてくるのがあったのですね。
現在治療している病気はありますか?って。ある場合には病名を、いつからから、とかを書かねばならないのです。
うつのことは書かずにおこうかともおもったのですが、調査票の最後のところに、「以上間違いありません」、とかいって宣誓して、署名しなきゃならないのです。後でばれたら嫌だしなあ、万が一具合が悪くなって、うつ病でしたというのはつらいしなあとおもい、素直に書いてしまいました。
それらの書類を出した後、面談でした。4人の登録者のうち、一番はじめにぼくが呼ばれ、健康問題のこと突っ込まれるかとおもいきや、その話に一切触れられず、やりたい希望の曜日や科目などをきかれてあっさり、終了となりました。
うつ病のことはきかれなかったのでほっとしたのですが、周りをよく見ると、ほかの登録の人たちは、ぼくよりも長く面談していて、なんか話し込んでいる感じでした。
やっぱり、ぼくは、うつでNGだから早めに終わらせられて、あとの人たちじっくり聞かれているんじゃないかとおもってしまい、センターの建物出てからどよんとした気分になりました。
やっぱ、うつのことはあくまでも内緒にすべきだったのかなあ。
あと面談を途中にはさんで、学力テストもやりました。参考程度のものということで、都立高校入試程度の問題を、英国数理社の中から、1科目だけ選んで、問題を解き、自己採点して提出するものでした。
ぼくは、英語を選びました。ちょっと自信あったのです。
ところが、熟語を問う問題でわからないところがあって、満点取れませんでした。
くやしい。これだからペーパーテストは嫌なんだと思いました。
そして極めつけは、解答を受け取って、自己採点してから、提出して(BOX)に入れて終了だったはずなのに、こともあろうに、自己採点しないで、提出して、帰ってきてしまったのです。
自分のあまりのドジさ・愚かさに改めて衝撃を受けているところです。
ああ、指示されたこともやらないで、出てきたんじゃ、全然だめだよなあ。
全然だめです。
ということで、ぼくのはじめての家庭教師登録会は、失敗あり、不測の事態ありで、惨憺たるものに終わったのです。
まあ、ほかにも登録会あるから、今回のことを踏まえて、次回に臨みたいとおもいます。
すいません。最後まで読んでくれた方、ありがとうございましたm(__)m
うつ持ち40代未経験の家庭教師への挑戦
そろそろ貯金も少なくなってきて、アルバイトでもしなければならないのです。
家庭教師をやりたいとおもって、いまいろいろな家庭教師協会に登録してみています。
なんで家庭教師などと思われるかもしれませんが、前職で4年くらい前に2年間英語翻訳の仕事をやっていたのです。だから英語力は、大学入学時と同じくらいの力はあると思っているのです。
しかし、いままで家庭教師とかやれる機会がなく、講師経験はほぼ未経験です。家庭教師とか塾講師とかって経験がものをいうようです。20代30代のとき、何度か応募してみたのですが、不採用でした。
それがいまは40代なので、更に難しいかもしれません。
20代は主にうつで寝込んでいたので、アルバイトも仕事もほとんどやっていなかったのです。大学生の時に、塾か家庭教師のアルバイトをやっていたら、実績ができて大学卒業してからも、勉強を教える仕事ができたかもしれないのに、残念です。
もっともぼくが塾講師不採用な理由は、経験だけでなく、面接のとき、敬語を上手に使えなかったこともあるみたいです。父兄と話をすることもある仕事なので、きちんと敬語が使えないといけないそうです。
それと以前言われたのは、「偏差値高めの大学を出ているから、英文は読めるんだろうけど、教えられるの~?」とか言われてしまい、結局、若い子に取られてしまったようです。
更に、小学生中学生の家庭教師は、複数教科(英国数)とか教えられないとダメで、ぼくは、英語か国語しか教えられないから、それでいままで仕事につながらなかったのです。
いまの求人を見ていると、一教科から週一日からOKとか出ているので、それを信じてトライしようとおもいます。
大学時代から、家庭教師とかやってたらなあー、とか、
うつにならなかったらなー、とか、いまさらぼやいています。
読んでくれてありがとうございました。
慢性うつの悲しみと不安
きのうは、アマチュア劇団のの稽古の日でした。
こちらは隔週日曜日に稽古をしております。
ぼくは演出者という立場でやっているのですが、お休みの人がいたので、久しぶりに、読み合わせですが、代役をやりました。
短いシーンですが、なんだかんだで、40分位、代役・代読をつとめたんですが、稽古が終わった後、どっと疲れが出まして、家に帰って、のびていました。
ぼくは、長いこと、うつ病を患っていて、薬も20数年飲み続けています。
病気のせいか薬の副作用のせいかで、激しい運動や、筋肉に負担をかけると、具合がわるくなってしまうんですね。だからもう20代半ば位から、運動や筋力に負担がかかるような作業はずっと避けてきたのです。
それでも30代前半は、レストランで皿洗いを、短い時間ではありましたけど、バイトでやっていたこともありました。軽作業ですが、その程度はだいじょうぶだったようです。
しかし30代後半からさらに体力・筋力が落ちてきているようにおもいます。
たしか4年くらい前も、演劇の稽古で、やっぱり代役で本読みをやったのですが、40分ほどやったらグロッキーになってしまって、稽古が終わった後、へたり込んでいたら、他のメンバーに、Kさん、死にそうな顔してる、と言われてしまいました。
そして昨日久しぶりに、代役やったのですよね。そしたら、やっぱりグロッキーだったわけです。実はきょうも引き続き寝込んでいました。
ああ~、やっぱりぼくはもう役者は無理なんだなあと、改めておもい、ちょっとだけ悲しくなりました。
中学・高校の時も演劇部で、役者やってたんですけどね。
まさか役者としての栄光が10代で終わってしまうとは思わなかった。
でもこのまま慢性うつ、慢性運動不足が続いたら、ぼくの他の部分の健康は維持できるのかとても不安です。
しかしまあ、自分なりにやれることをやっていくしかないのですが。
亡父がいっていました、「なるようにしかならない」と。
明日はまた明日でぼくなりにがんばります。
読んでくれてありがとうございました。
早朝覚醒と嫁の悪夢と夫婦のきずな
きょうは、久しぶりの早朝覚醒で、朝5時に目が覚めました。
でもまだ起きたくなくて、布団の中でうだうだしてたのですが、そしたら隣に寝ている嫁がうなされ始めました。
「あ~、あ~~、おねえちゃーん、おねえちゃーん、おねえちゃーん!!」
3回、おねえちゃんと叫んだところで、嫁は目を覚ましました。
ぼくは、嫁がもう一回叫んだら起こそうと思って、嫁の方を向いてスタンバイしていたのですが、その前に嫁は自分で目を覚ましました。
そして「Kさ~ん」と言って、ぼくの手を求めたので、ぼくはすぐに手を差し出し握ってあげました。
嫁はたまにうなされるんですね。嫁には、5つ年上のお姉さんがいて、小さい頃はいつもべったりだったそうです。なので怖い夢を見たときも、お姉さんに助けを求めるんだそうです。
ぼくはたまたま早朝覚醒していたので、すぐに手を握ってあげれたんですが、5分ほど握っていたので、もういいかなとおもって、手を放そうとすると、微妙に力が入っていて彼女は放してくれません。あれ?まだ怖がっているのかなとおもい、それから更に5分間手を握って、そして手を放しました。
ぼくは、5時半位には布団から出て、自室で動画などを見て、早朝の時間帯を過ごしました。
朝8時過ぎに嫁が起きてきて、朝食を食べ、朝の散歩に二人で出かけました。
嫁の話によると、やはり悪夢だったようです。
とびらの向こうに、お化けがいて、とびらを開けようとするのだけども、それを必死で嫁は開かないように部屋の中から押さえていたそうです。しかし、ついにお化けに押し切られ、部屋の中に入ってきた、というところで、目が覚めたということです。
嫁はぼくが手を握ってあげてたことも覚えていて、最後ぼくが手を放したことを、本当はまだ怖かったから、もう少し手をまだ握っていてほしかったそうです。
以上、今日の早朝での出来事でした。
ちなみに、早朝覚醒があると、二度寝しても、すっきりしないで、昼過ぎから夕方にかけてしんどいのですね。
夜は、観劇に行き、その芝居は面白かったのですが、ぼくはフラフラで、そんな状態で朝ちょこっとあったことをとりとめもなく書かせていただきました。
あしたは早朝覚醒おきないようにっと。
うつ病で7年間寝込んだぼくがアルバイトを始めた理由
大学を2年留年してなんとか卒業したものの、それから3年間は療養生活、別のことばを使えば、ぷらぷらしてた時代が続いたのですが、大量に抗うつ剤も飲んでいたし、副作用もあって、28歳位まで、寝て起きてまた寝ての繰り返しの生活をしておりました。生活は、親が保護してくれていたのです。
27歳をすぎたころから、だいぶ精神的にも楽になってきて、何かはじめなきゃとはおもっていたのですが、なにぶん、過睡眠で、寝すぎでだるくて、また横になってしまうとい悪循環がかなり習慣づいてしまっていたので、それをふりきって、アルバイトなりするのはまだ難しいかなあ、自信ないなあと思っていました。
そんなある日、午後2時位、いつものようにまだぼくは布団の中でゆめうつつな感じでいたところ、母の鉄槌をうけました。
「もう、がまんも限界だー!!!」
と母が叫ぶ声が聞こえたので、部屋に入ってきた母を見ると、母は片手にトンカチをもっていて、それで、ぼくのかけている布団をはぎ取ったかと思うと、ぼくの足を目がけて、トンカチを打ち付けてきました。
「起きろー!起きろー!」
といいながら、トンカチでたたきます。
「お母さん、痛いよ、本当に痛いよー!」
とぼくが言うと、
「痛くしてるんだー!!!」
続けて、
「働けー、働けー!」「起きろー!起きろー!」
母の鬼気迫る形相と気迫に圧倒されて、さすがのぼくも飛び起きて、急いで服を着て、家を出ていきました。
といっても、眠いものはやはり眠いので、近くの公園に行って、ベンチに横になっていたのですが。
その日は、それで少し時間をおいて帰ってきて、終わったのですが、さすがにも何かアクションを起こさないと済まされないなという気になりました。母さん恐いし。
それでとにかく短時間のアルバイトをみつけようとおもったのです。母にもその旨を伝えました。一日もはやく見つけて来い、という感じでした。
当時、ぼくは28歳になっていました。
うつはだいぶ楽になったけれども、だるいし、朝起きれないし、働くのはまだ無理だなとぼくは心の底からおもっていました。だからとりあえずバイトを見つけてきて、それで働く職場とかで倒れたりして、救急車で運ばれたりすれば、さすがの母もぼくのことを理解してくれるだろう、ゆるしてくれるだろう、とおもったのです。
それで職場で倒れるのを覚悟で、バイト探しをはじめました。
体力には自信ないし、朝は起きれないので、短時間で、夕方からの仕事をさがしました。それで見つけたのが、マクドナルドのキッチンの仕事、週2~、1日3時間OK、とあったので、これなら可能性あるかもしれないとおもい、応募しました。
運よく即決で採用となりました。仕事探しはタイミングが重要ですよね。たまたまその時は、人手不足だったようです。週二日20時~23時までの仕事でした。
結果はなんと、1年続いたのでした。
この体験はぼくが大学卒してから、改めて社会へでていく上で大きなきっかけになったことでした。
仕事自体は、7年ぶりのぼくにとってはすごい緊張と恐怖で、本当に慣れるまで大変だったのですが、半年過ぎたあたりからだいぶ緊張がとれてきたようにおもいます。
そして倒れるかと思いきや、意外ともつし、実際一回は倒れたのですが(救急車はよばれず)、倒れたのは、はじめの1か月目位の時で、それ以降は、倒れることもなく週2日3時間のペースで継続できたのでした。
わかったことは、普段寝すぎでだるくて気力のない状況でも、いざ労働をしなきゃいけないという段になると、エネルギーは出てくるものだということでした。これは体験的にわかったことであって、自分の頭だけで考えても、また、ただ人にやさしく助言されたからといってわかるものではないとおもいます。だから、そのきっかけになるようなものがとても重要になるのです。
ぼくの場合、アルバイトを始めた理由は、母のトンカチせっかんでした。
しかしあそこで母のトンカチがなかったらいまぼくはどうしていたろうかとおもいます。
母のトンカチは暴力だけども、親が子どものことをおもって意を決して行った行動は、きっと子に伝わるのではないかとおもうのです。しかもぼくがよくなりはじめて、社会へ出ていきたいというタイミングで、それをするのですから、母親の直観はすごいです。
うつ病で何年も寝込んじゃったら、社会復帰を自力でするのはとても難しいです。
薬はなかなかなくせないし、副作用でだるいし、やはり病気のせいでだるいのかもしれないし。おのずと気分がよくなって、元気が出てきて社会復帰なんてことは現実的にはすごくむずかしいようにおもいます。
なにか強烈なきっかけがないと難しいとおもいます。そしてそれを与えるのに一番ふさわしいのは、やはり親なのではないかとおもいます。
母ももう80歳、もう今度はさすがにトンカチで殴る元気もないとおもうけど、母からもらったトンカチのあじ、いつまでも忘れないでいたいとおもいます。
母さん、ありがとう。
20年来の慢性うつ病者の悲願
おそらく慢性の精神疾患者の悲願は、自分の体験と苦労をなんらかの形で社会の役に立てたいということではないでしょうか。
ぼくは、中学のときの10か月間のいじめが原因で、抑うつ状態になり、大学まではなんとか入学したものの、2年生になるころには精神的に破たんしてしまいました。
そこではじめて精神科とつながり、うつ状態だと診断されて、以来20年以上にわたりうつを抱えて生きてきました。
40代も半ばに差し掛かろうとしていますが、仕事についたり、休んだりの繰り返しで、そのつど一生懸命生きてきたのですが、やってきたことはどれもはんぱで、なにひとつプロフェッショナルというものを築けていないのです。
そんなぼくがいままで生きてこれたのは、とてもラッキーだったのだとおもいます。
でもやはりひとに誇れるものがないというのは、とても悔しく残念です。
ぼくのいじめ体験とうつ病は、運命だったのだとおもっています。そしてこのいじめうつの後遺症はこれからも続いていくのだとおもいます。
運命は甘んじて受け入れるしかないけれど、でもぼくはその運命を生かしたいとおもうのです。
こんなぼくだからこそできることがあるのではないか、社会に役立てることがあるのではないか、ぼくは社会の役に立ちたいし、自分の運命をいかして役に立ちたいとおもうのです。
ぽんこつなぼくで、どうやったらそれができるのか、日々苦闘悶々としていますが、でもやっぱりぼくはそれを欲せずには、願わずにはいられないのです。
過去のことはすっぱり忘れて、新しく生まれ変わるのではなく、過去と現在の生きづらさにからめとられながらも、その中で自分を生かしていく道を模索しています。
それがぼくの悲願なのです。