人生悲喜こもごも

演劇、哲学、うつ、人間関係など、日々感じたり考えたことを書きます。

稽古場が取れてなかった!そんな時の窮余の策とは

きょうは演劇の稽古の日でした。

 

しかしぼくのミスで稽古場がとれていなかったのです。稽古場まできてそれが判明しました。

 

焦りました。

 

メンバーがどんどん集まってきて、ぼくは待ってもらって、ほかに稽古場がとれる場所がないか、思い当たるところには問い合わせてみたのですが、どこもだめでした。貸しスタジオ、劇場の稽古場等、そりゃあそうですよね、日曜日の当日に、しかも昼間に空いているはずないですよね。

 

そして、これはもうだめかとおもったときに、ふと気づくと他のメンバーも思いつくところを電話で問い合わせてくれていたのでした。

 

そして、誰かが、カラオケルームのパーティ用の広い部屋とかがあれば稽古できるのじゃないかしら思いついてくれました。そしてなんと最寄りの駅の前のカラオケ館で、20人部屋が空いていたのです。

 

きょうは、7人での稽古で、プラス体験参加の方も1名いたので、結構な人数だったのですが、パーティ用の部屋、稽古場になりました。

 

しかもフリータイムの時間だったので、8人で、5時間いて12000円で済みました。いつもの公民館の稽古場よりも確かに6倍くらい高いけれど、民間のやっている稽古場を借りると、1時間5000円位かかるのを考えると、大変リーズナブルでした。カラオケの機能は、全部電源切っちゃえばいいし、机も端に寄せると結構スペースとれるのです。しかもカラオケルームだから、発声練習をしてもだいじょうぶでした。

 

そんなこんなで、一時は稽古の開催が危ぶまれましたが、無事稽古を終えることができました。

 

一応ぼくが責任者なのですが、怒らずあきらめずに稽古場を探してくれて、またカラオケルームにもかかわらず稽古に集中してくれたメンバーに感謝です。

 

こんな失敗はいまのグループをはじめて初めてのことだったのですが、カラオケルームが稽古場に使えるというのは新たな発見でした。今後こんな失敗は絶対にあってはいけませんが、いざという時の手立てがひとつできたという意味では、すごくよかったとおもいます。

 

失敗の中からノウハウが生まれてくるというのはこういうことでしょうか。しかも自分一人ではない、仲間の力で乗り越えられたというのがとても大きい意味をもっているようにおもいます。焦りもしましたが知恵もつき勉強にもなった一日だったのでした。

 

慢性うつの悲しみと不安

きのうは、アマチュア劇団のの稽古の日でした。

こちらは隔週日曜日に稽古をしております。

 

ぼくは演出者という立場でやっているのですが、お休みの人がいたので、久しぶりに、読み合わせですが、代役をやりました。

 

短いシーンですが、なんだかんだで、40分位、代役・代読をつとめたんですが、稽古が終わった後、どっと疲れが出まして、家に帰って、のびていました。

 

ぼくは、長いこと、うつ病を患っていて、薬も20数年飲み続けています。

病気のせいか薬の副作用のせいかで、激しい運動や、筋肉に負担をかけると、具合がわるくなってしまうんですね。だからもう20代半ば位から、運動や筋力に負担がかかるような作業はずっと避けてきたのです。

 

それでも30代前半は、レストランで皿洗いを、短い時間ではありましたけど、バイトでやっていたこともありました。軽作業ですが、その程度はだいじょうぶだったようです。

 

しかし30代後半からさらに体力・筋力が落ちてきているようにおもいます。

 

たしか4年くらい前も、演劇の稽古で、やっぱり代役で本読みをやったのですが、40分ほどやったらグロッキーになってしまって、稽古が終わった後、へたり込んでいたら、他のメンバーに、Kさん、死にそうな顔してる、と言われてしまいました。

 

そして昨日久しぶりに、代役やったのですよね。そしたら、やっぱりグロッキーだったわけです。実はきょうも引き続き寝込んでいました。

 

ああ~、やっぱりぼくはもう役者は無理なんだなあと、改めておもい、ちょっとだけ悲しくなりました。

 

中学・高校の時も演劇部で、役者やってたんですけどね。

まさか役者としての栄光が10代で終わってしまうとは思わなかった。

 

でもこのまま慢性うつ、慢性運動不足が続いたら、ぼくの他の部分の健康は維持できるのかとても不安です。

 

しかしまあ、自分なりにやれることをやっていくしかないのですが。

 

亡父がいっていました、「なるようにしかならない」と。

 

明日はまた明日でぼくなりにがんばります。

 

読んでくれてありがとうございました。

 

 

セリフがうまい役者とは

演技のお話です。

 

セリフがうまい役者とは、文脈にあったニュアンスをセリフにのせて伝えることができる役者のことです。

 

同じセリフでも、文脈によって、ニュアンスは千変万化します。

 

ニュアンスの中には、意味、役のキャラクター、などが考慮されます。

 

台本に「バカ!」

と書かれているとしても、このひとつのセリフには、様々な意味があるのです。「バカ」というとふつう相手を侮辱することと考えられますが、侮辱ではなく、叱るという意味でのバカもあれば、単に怒りの表現としてのバカもあります。あるいは、恋人に対して、好きな思いを「バカ」に込めることもあります。

これらの意味を文脈の中できちっととらえることで、セリフとして発せられたニュアンスは当然変わってきます。

 

もうひとつは役のキャラクターです。演じる役がどんな人物なのかによっても、セリフのニュアンスは違ってきます。相手を侮辱する「バカ」でも、高圧的なタイプ、腰の低いタイプ、やさしいタイプの人がいうのでは当然ニュアンスは違ってきます。

 

これらの意味やキャラクターを踏まえてひとつひとつのセリフのニュアンスは決定されていくのですが、それらは勝手に役者が決めることではなく、あくまでも台本を根拠にして、台本からそのニュアンスをくみ取らなければなりません。

 

その意味でセリフのうまい役者とは台本が読める役者なのではないかとおもいます。

 

社会人演劇の最大のメリット

社会人演劇もしくはアマチュア演劇のメリットについてはいろいろあるかとおもいますが、最大のメリットは、アマチュアだからこそ、「純粋」に芝居や芸術を、自己自身を追究できるところではないかとおもいます。

 

芝居をやる動機は、人それぞれだとおもいますが、ひとつは演劇という仕方で「自己表現」を追求することです。これは劇作家なら台本、演出家なら解釈とプラン、役者なら演技、ということになるでしょう。

 

これらは演劇を構成する主要素ですが、それらの能力や技術を発揮したり高めたりすることそのものが楽しい、というのが動機でしょう。

 

もうひとつ隠された動機があるとぼくはおもっています。

それは演劇活動という集団創作の場に身をおくことで、自分自身の成長や再発見をしていきたいというものです。

演劇をやる人は気づいているかなしかに関わらず、どこかで自分探しをしているようなところがあり、またそれを通して新しい視野を見つけようとしているようにもおもいます。

それは集団の創作活動だからこそできる大きなメリットだとおもいます。そういう教育的な機能を演劇というものが持っているのだとおもうのです。なぜなら演劇活動は、人間関係を媒介として人間関係を表現しようとする創作活動だからです。

 

ぼくは、アマチュアの社会人演劇活動をやっていく中で、そのような光景を、他の仲間たちの中にも見ているし、なによりも自分自身にとってそのような意義があることを実感しています。

 

社会人演劇の最大のメリットは、そのような動機に根差した活動を、「純粋」に追求できるところにあるとぼくは考えます。

 

純粋さというのがとても大事で、アマチュアであるゆえに経済的な利害が絡まないことで、自分の発揮したい高めたい能力や技術を、ただそれだけのために求めることができるのです。

 

例えば職業俳優だとそういうわけには必ずしもいきません。自分の演技の能力を高めることより、収入を得たいというおもいから自分の広告・営業活動に心が奪われてしまったり、生活費をかせぐことを口実に、かえって日々の稽古をさぼってしまったり、あるいは、うぬぼれや嫉妬心で演技がかえって雑になったり質をおとしてしまう等、その俳優の純粋な演技力追求を邪魔するさまざまなわなが職業演劇の中にはあるのではないかとおもいます。

 

職業俳優になろうとする人たちには、さまざまな思惑や野心があり、必ずしも、演技が好きということだけでやっている人たちだけではないですし、たとえ好きであっても自分の追求したいことをやらせてもらったり、自分が伸びるようなことにチャレンジする場を与えてもらえたりするのはよほど恵まれている人でない限りまれです。

 

その点で、社会人演劇、アマチュア演劇は、純粋に演劇が好きだからやるのであり、演技が好きだからやるのですし、またアマチュアの創作の場も、職業としての思惑や野心に惑わされずに、純粋に自分の好きなことを追求できるのです。

 

自分を知るという意味での自己探求においても同じことが言えます。

利害関係やかけひきなしに演劇の仲間と交わりをもつことができます。それは経済生活中心のいまの日本の中にあって、とても貴重であるし、利害が絡まないからこそ、純粋に仲間のことをおもいやれるし、仲間からも率直なフィードバッグがかえってくるのです。また立場や経済状況からの制約も受けないので、そこでの人間関係は、なんのしがらみもなく、それぞれが一人の人として、つき合うことができるのです。個人的には様々な問題を抱えているかもしれませんが、少なくても、上に述べたようなしがらみからは解放されたところにある場なのです。そこで人は改めて本来の自分を見出し、取り戻せるのかもしれません。

 

こうした、演劇活動そのものにおける活動の純粋さ、および、その場での人間関係そのものの純粋さ、このふたつの意味での「純粋さ」こそ、社会人演劇もしくはアマチュア演劇が持ち合わせている最大のメリットなのではないかとぼくはおもっています。

 

 

はじめての演劇体験 小学校6年生、台本・演出・出演

ぼくのはじめての演劇体験のお話です。かなり昔の話です。30年くらい前の話です。

 

ぼくはその時、小学校6年生で、修学旅行を控えてました。その修学旅行のリクリエーションで、仲良し3人組で、寸劇をやることになっていたのです。

 

ところが、修学旅行当日は、たしかぼくの具合が悪くて、リクリエーションに参加できなかったのですね。

 

そしたら、担任の先生が、それじゃあ、今度の全校集会の時に、時間とるからやっていいよと言われたのです。修学旅行だと観客は同学年だけだし、ステージもあってないようなものだったのですが、全校集会なので、体育館でやるわけで、ステージもあるし、全学年が見ている前でやる機会を与えられたのですね。

 

そんなこといままでやったことなかったけど、ひょうきんもののこんびだったので、なんか面白いことやろうということで、普段の授業中の授業妨害的なおふざけを、まあ体育館のステージの上でやろうということになったのです。

 

なんかね、ぼくはハッスルしちゃって、台本書いちゃったのね。そしたら、他の2人もそれでやろうということにすぐ同意してくれたのです。

 

芝居(寸劇)のタイトルは、「正義は勝つ!」。あらすじは、主人公(正義の味方)のぼくが、道を歩いていると、ちんぴらっぽいのが歩いてきて、肩がぶつかるんですね(わざとです)。そしたら、そのちんぴらが、「どこ見て歩いてんだ、このヤロー!」ときれて、ポケットに潜ませていたナイフを持ち出してぼくになぐりかかってくるのです。正義の味方のぼくは、そいつの腕を片手でかっこよくつかんでねじ上げて、一言「やめといたほうが、いいぜ」といって、そいつの腕ごと突き飛ばすのです。それで恐れをなしたちんぴらは、「ちくショー、覚えてやがれ!」と言って逃げていくわけです。

 

場所は、変わって、今度は、そのちんぴらが自分の親分に復讐のお願いをするわけですね。当時、小松政夫の「小松の親分さん」というのネタが流行っていて、親分役が小松くんと言ったので、それとかけて、「小松の親分さん、かたきを討ってください」とちんぴらがいうと、親分が「なにー、そいつはゆるせねえ、野郎ども、いくぞー!」というのです。出演者は3人しかいなのですがね。

 

それで再び、同じ道で、ぼくが歩いていると、小松の親分とちんぴらの二人が登場して、ぼくを取り囲んで、「覚悟しろー」とかいうので、最後に、正義の味方の必殺技がさく裂するのです。ぼくが「スーパー、ハリケーン!!!!」といって、派手にくるっと回ると、囲んでいた二人が、吹っ飛ぶというわけ。

 

飛び散っていった二人をみて、最後の決めぜりふが、

「正義は勝つ!」

 

END

 

 

という芝居です。10分弱の寸劇だったといおもいます。

 

結構、受けましてね、ぼくの「やめといたほうがいいぜ」と

ちんぴらが「小松の親分さん」のに泣きつく下り、

そして、さいごの「スーパーハリケーン!」のところで笑いがどっと起きました。

 

いやー、くだらないですが、あのときは、なんにも考えていなかったけど、

うけたし、それがうれしかったし楽しかった。

 

これがぼくの演劇初体験、しかも、作演出主演(最初でいまのところ最後(;´・ω・))の思い出です。

 

これがきっかけとなって、このあと、中学に一緒に上がった仲良し3人は、演劇部に入ることになるのです。

 

きょうは、ぼくの演劇初体験のお話でした。

 

世阿弥が教える役者の究極の心構え

「稽古は強かれ、情識(じょうしき)はなかれ。」

 

これは室町時代の能の大成者、世阿弥の著作『風姿花伝』の中に出てくる一節です。ここでは役者の心構えを記しているのですね。

 

「稽古(勉強)はうんとしなさい、でも、自惚れてはいけないよ」という意味です。

 

稽古をがんばってやり続ければ、舞台でいい評価をもらえるときもあるかもしれないけど、そこで、おれはすごいんだとか、あいつより上だと自惚れてしまったら、それでおしまいだというのです。なぜなら自惚れると必ず稽古が甘くなって、演技の質が落ちてしまうからなのですね。だから評判がでても、決して自惚れず謙虚な姿勢を堅持しつつ、稽古に励み続けなさい、というのですね。

 

これは、演技の道だけでなく、あらゆる芸事や、自分の職業的なキャリアについても同様に言えることだなあとおもいます。

 

どんなことであれ上達しようとしたらたくさん勉強しなければならないのは言うまでもないことですが、ぼくたちは、ちょっとでも結果が出て、例えばいい大学入った、国家試験に受かった、○○賞もらった、とか結果がでると、ついついそれにあぐらをかいてしまいます。そこで努力をやめてしまうのですよね。

 

ぼくが一年浪人したときに通っていた予備校の英語教師が、君たちは大学受験した時が、人生で一番英語力が高い、大学入った後はどんどん落ちていくんだ、と言っていたのをおもいだします。

 

どんなことでも努力し続けなければ、更に上達することはできないし、現状維持もできないのが現実。そして、もっともそれを邪魔するものは、自惚れというわけです。

 

世阿弥の金言は、演技道のみならず、最終的には、人間道にまで通じているところにその古典としての価値があるのだとおもいます。

 

しかし、演劇やっているものとしては、この言葉聞かされると、ほんと耳が痛くて、この先読み続けるのが心理的にとてもむずかしいです。ほんとお師匠さんに説教されているように感じます。そしてぼくの演劇の師匠は、世阿弥の大ファンなのです。

 

 

自分のことを大切にすることは難しい

自分を大切にすること、自分にやさしくすることは、なかなか難しいです。

 

ついつい自分のことだと、厳しく冷たくなっちゃうのです。悪意がめばえちゃうのです。

 

今年の初めにやった公演も、ちょっとでも悪い評価を聞かされると、もう目の前真っ暗になってしまって「なんて自分はくだらないものを作ってしまったんだろう!?」と思ってしまい、自己卑下し、作品そのものの出来だけでなく、それまで1年近くかけて準備してきた努力も、くだらいないことのように思えてしまうのです。

ぼくは演出で、出演してくれた7人のメンバーがいるのですが、その人たちにも、ぼくのくだらない演出についてこさせて申し訳ない、と自責の念にかられてしまうわけです。

 

ただ一生懸命やったし、誠意をもって十分準備して作ってきたことに対しては、なんら恥ずかしことはないとおもっているのです。

 

しかし、悪い評価には過剰に反応してしまって、ここぞとばかりに自分を責めたり、冷たい態度をとったりする癖が自分にはあるのです。

 

自分を大切にするとは、自分の親友に接するときのように自分にも接することだ、とどこかの本に書いてありました。

 

もしこれがぼくの親友の舞台だとしたら、彼が一生懸命作ったものに対して、他の人がどういおうが、「君、くだらないものを作ってしまったね」なんて冷たいことは絶対に言わないし、その友人が時間をかけて努力してきたことを尊重し、ねぎらうとおもうのです。

出演者に対しても、上演はうまくいかなかったかもしれないけども、誠意をもって演出したんなら、恥じることはないし、自分を責める必要もないよ、と言って上げれるのではないかとおもいます。

 

それが自分の舞台のことになると、全然そうはおもってあげられなくて、あたかも仇敵のように自分に対し冷酷に接してしまうのです。

 

ひとのことは尊重できるのに、自分にはどうしてやさしくできないの、とおもってしまうのだけど、本当は他人のことも尊重できなくて、ただ外づらをよくしているだけかもしれない、本当の自分は悪意に満ちているだけじゃないかとおもえてもきます。

 

他人に対する悪意も危険なものだけども、自分に対する悪意もそれにおとらず、危険で恐ろしいもののようにおもえます。

 

どうやったらこの悪意というものと縁を切れるのやら。そんなことをおもった夜でした。